コラム

プロ講師のコラム The Owl at Dawn

ホーム » 助川幸逸郎 » 十分でわかる日本古典文学のキモ 連載十四回 『平家物語』~「生きのびる知恵」と「鎮魂のおもい」が託された書

十分でわかる日本古典文学のキモ 連載十四回 『平家物語』~「生きのびる知恵」と「鎮魂のおもい」が託された書

 今日は、『平家物語』の話をする番だったよね。

 はじめてぼくが『平家物語』にふれたのは、こどもむけリライト版を読んだとき。もう四十年以上まえのことだ。『ルパン三世 カリオストロの城』の映画が公開されてまもないころだった。

 清盛が、熱病になって死んじゃう場面が衝撃でね。石づくりの浴槽に水をみたして、そこに清盛をいれたらすぐ沸騰したとか。清盛のからだに水をまいたら、やけた鉄板にまいたみたいに音を立ててはじけたとか。

 そんなになるなんてなんの病気だろう? ふしぎにおもって翌日、近所の図書館でカウンターにいるおじさんに訊いてみた。おじさんはいろいろしらべてくれた。それで清盛の病気は、マラリアらしいってわかった。

「マラリアは伝染病でね。蚊にさされるとうつるんだよ。太平洋戦争のとき、兵隊さんがよくこの病気になった。おじさんのお父さんも、南の島でマラリアにかかって死にかけたんだ。」

「蚊にさされたら、ぼくも清盛みたいになる?」

 ちょっとこわくなって、「たすけて」っていうような気持でぼくはおじさんをみた。

「日本にいてマラリアになるひとは、いまはもういないよね。むかしはいたんだけど、気候がかわったんだろうねえ――」

 おじさんは、にっこりわらっていった。タレ目で、髪の毛が半分しろくなったおじさんだ。そのとき、五十歳をちょっとすぎたぐらいで……小学校三年生で、『百人一首』と『源氏物語』にめざめたって話、このまえしたよね。

「吉永小百合の藤壺が観たい」

 そんなことを口にしても、小学校の先生だってうけとめてくれない。両親も全面的にスルーしてくる。ぼくが「古典トーク」をできるのは、当時はこのおじさんだけだった。

「あとね、きみ、体温計がどうして四十二度までしかないか、しってるかい?」

 昭和のころの体温計は、目もりではかるやつだった。

「しらない」

 ぼくがいうと、おじさんはもういちど。にっこりした。わらうと目じりに、たくさん皺がうかぶひとだった。

「人間は、体温が四十二度をこえることはありえない。それより熱があがると、からだの組織がとけてしまう……それでね、水が沸騰する温度は百度だろう?」

 おじさんがなにをいいたいのか、わからなかった。ぼくは理科が苦手だ。だから、おじさんの理科っぽいはなしにイラっときた。

「沸騰のはなしはいいよ。清盛についてもっとはなしてほしい」

「これ、清盛のはなしだよ」

 おじさんは、目をまるくしてふざけるような調子でいった。

「水を沸騰させるには、百度以上の必要なんだよ。ところが、人間の体温は百度になんてなれない。水に清盛を投げこんだら沸騰したってのは、つくり話ということだね」

 ぼくはすこしがっかりした。じぶんが清盛みたいになるのはこわい。でも、ひどい熱をだしてからだで湯をわかす武士がいたらおもしろい。どこかで、そうおもってた。

「そんなつくりばなしをどうしてするの? おおげさなほうがおもしろいから?」

 おじさんは、ポリポリ、左手で頭をかきながらぼくの目をみた。

「『平家物語』の話、もっと聴きたいかい?」

 ぼくは、こっくりうなずいた。

「じゃあ、あと二十分ぐらいで図書館は閉館だから、玄関のまえで待っててくれる?」

 図書館の正面入りぐちのわきに、赤い公衆電話があった。そこから家に電話した。図書館のおじさんに歴史のはなしをしてもらうから、帰るのは七時ぐらいかも――

 おじさんは、ちかくにある小さな喫茶室にぼくをつれていった。そして、ホットケーキと紅茶をたのんでくれた。ぼくがホットケーキを食べおわると、おじさんはしずかに話しはじめた……

――もし、からだの熱でお湯をわかしちゃう武士がほんとにいたら、きみはどうおもう? 人間じゃねぇ、怪物じみているって、感じるんじゃないかな。昔のひとたちも、おなじだったとおもう。清盛はバケモノか超人だ。『平家物語』の清盛が死ぬあたりを読んで、そんな印象をもったんじゃないかな。

それでね、『平家物語』に出てくる武士で、怪物みたいなのが、ほかにもいるだろう? 木曾だよ、木曽義仲。

 義仲は、ずっと木曽の山のなかでくらしていた。魚といえば干ものしかたべたことがなかった。都にやってきて、はじめて生の魚を口にいれたんだ。そうしたら、あんまりおいしいんでびっくりした。

「これはなんなんだ?」

おもわずまわりにたすねた。返事は「無塩むえんの魚です」だった。「ムエン」というのはね、「塩づけにしてない」っていう意味。でも義仲は、とれたてのものはなんでも、「ムエン」っていうんだと勘ちがいした。

 ある日、猫間中納言というひとが義仲のところにやってきた。このとき、新鮮なきのこが屋敷にあったんだ。それで義仲は、きのこをメガ盛りごはんといっしょにだした。

「ムエンのきのこだ! たべてくれ!」

そう義仲はいっちゃった。猫間中納言はこまって、ひとくちも食事に手をつけなかった。これをみて義仲は大笑いした。

「これがうわさの猫まんまってヤツか!」

「猫まんま」は、「小食」っていう意味だ。

義仲は、ことばの発音もヘンだった。『平家物語』にはそう書かれている。田舎ものだから、京都の貴族のことばをしゃべれなかったって。

「田舎ものなのに、柄にもなく都に出てきていばった。だから、笑われて、きらわれた」

『平家物語』の義仲は、そういうキャラに設定されている。でも、じっさいの義仲はそれとはちがってた。

 木曽でそだったのも、都にでてきたのも、事情があってのことだった。

 義仲がうまれたのは、いまの埼玉のあたり。まだちいさかったころ、父親の義賢が、頼朝の父・義朝とあらそって殺された。義仲も、命があぶなくなって木曽に逃げたんだ。

平家とたたかって都にのぼったのも、そうしないと生きのこれないからだった。木曽でおとなしくしてたら、頼朝か平家に滅ぼされてたかもしれない……

でも、『平家物語』には、義仲の生いたちが不幸だったことは、かかれてない。平家に勝って都にむかうしか、たすかるみちがなかったことも。

あとで説明するけど、じっさいの義仲は「貴族の常識」をわきまえていた。山奥から都にでてきたのも、そうする必要があったからだ。なのに『平家物語』は、似あわないことばかりするエイリアンみたいに、義仲を語る。

どうしてそんなふうにしたのか。清盛を怪獣にしたのと、おなじ理由からだとおもう。

清盛は、すごい権力を手にしたけど、死んだら四年で平家はほろびた。義仲も、平家を都から追いだして、討ち死にするまでたったの六ヶ月だ。天下をとったのに末路は不幸だった――そういう武士は、バケモノあつかいにする。それが『平家物語』の方針なんだ。

それでね、『平家物語』にはこんな場面がある。義仲は都にやってきてまもなく、越後の守のポストについた。なのにそれからすぐに、『やっぱり越後じゃいやだ』といいだした。そこであらためて、伊予の守に任じられた。このことは、当時の記録にもでてくるから、現実にあったことだとおもう。

伊予の国が、いまの愛媛県だって、きみは『源氏物語』マニアだから知ってるよね? そして、越後は新潟だ。

現代では、愛媛県知事と新潟県知事のえらさ・・・に変わりはない。でも『平家物語』の時代、伊予の守と越後の守では格がちがってた。

伊予の守と越後の守、どっちが上なのか。

当時、公式に決められた「国のランク」みたいなのがあった。ゆたかさのちがいで「大国・上国・中国・下国」。それから、都にどれだけちかいかで、「近国・中国・下国」にわかれる。都からとおくないほうがもちろん「いい国」だ。それで、伊予と越後は、どっちも「上国」で「遠国」だ。格がまったくおなじ国どうしだと、守のえらさもかわらない。つまり、公式ランキング的には、伊予の守と越後の守は対等だ。

じゃあ、義仲はなんで、越後より伊予がいいっていったのか。木曽は山国で冬さむいから、温暖な伊予がいいって感じたのか。そういう「個人的好み」の問題だったのか。

義仲の時代に、とくべつイメージのいい国の守があって――それが、播磨と伊予だったんだ。もともとはこのふたつが、海運の重要ポイントだったせいらしい。

 あのころ「貴族」というのは、五位以上の位をもっているひとのこと。そのなかでも三位以上はとくべつ上級だった。「国の守」は、四位か五位がなるポストなんだけど――播磨と伊予の守をやると、つぎは「とくべつ上級」の役職に就くことも多かった。

 国の公式ランキングをしらべても、越後と伊予の差はつきとめられない。このちがいは、貴族たちだけが知っている「暗黙のルール」だったわけだ。

 義仲は、そこをわかってた。まちがいなく、「貴族の常識」をそなえた人物だった。

 なのに、『平家物語』は、かれをとことん異分子あつかいする。後白河法皇に攻められて、かえり討ちにしたあとには、こんなことをいわせてる。

「法皇に勝ったんだから法皇になってもいいはずだ。でも、坊さんのかっこうは似あわないよな。かわりに帝になる手もあるが、こどもの衣装を着るのもいやだな。

ここは関白になるとするか」

 それでまわりに『関白になれるのは藤原氏だけ。殿は源氏です!』ってとめられる。

 法皇は「出家した上皇」。権力があるのは上皇だからで、坊さんの姿をしてるからじゃない。そして、このときの帝は後鳥羽天皇だ。まだ五歳だったから、こども服を着てただけ。『天皇は、大人の衣装をつけるべからず』とか、きめられていたわけではない。

 義仲は、そういうことにさえ無知な野蛮人! 『平家物語』は、そんな印象を読者にあたえようとする。ほんとの義仲は、伊予の守と越後の守の区別がつく男だったのに……

清盛の熱発百度ごえと、このやりかたは似てる。現実を無視した怪獣化ってやつだ。

 歴史をもとにする物語が、話をおもしろくしようとして大げさになる。いつでもどこでも、そういうことはおこりやすい。でも、清盛や義仲の人外ぶりが誇張される理由は、これとはちがう。

 武士の清盛が最高権力者になって、国じゅうのひとがたぶん、なやんだんだ。

『武士は貴族の下僕だったはず。どうして主人をしたがえるようになったんだ?』

ロボットが人間にとってかわるSFがよくあるだろう? 当時のひとは、あれを目のまえでみてる気がしたとおもう。

藤原氏のトップが執政者になって、帝をたすけて政治をやる。奈良時代の途中から、なん百年もそのやりかたがこの国ではつづいてた。ところが、『平家物語』の時代より百年ぐらいまえに激変がおこった、「元・天皇」である院が、帝のかわりに政治をやる院政がはじまったわけだ。おかげで、天皇と、藤原氏の頂点にいる関白と、それから院――三人の関係は、おそろしく複雑なものになった。そうしたなかで、清盛という武士が絶大な権力をにぎった。

 そのうえ、つよい勢力をもったお寺もあらわれた。比叡山の延暦寺とか、奈良の興福寺とかね。こういうお寺はでっかい領地をもってて、院の命令にもしたがわない。

 ようするに、みんなこまったんだ。

『だれがこの国のトップなのかわからない』

『この問題は、どこにたのめば解決するのか不明』

じっさい清盛でさえ、ひとりでなんでもきめられたわけじゃない。かれは、法皇の御所を兵隊に包囲させたり、奈良の興福寺を攻撃したり――いっぱい、ゴリ押しをしてるようにみえる。でも、しつこく抵抗する相手がいるから、ムリをしなくちゃならないわけだ。さいしょからだれもさからわなかったら、軍勢なんてうごさずにすんだはずだ。

 そして、わけのわからないこの状況に、説明をつけようとしたひとがいた。慈円、っていう坊さんだ。

 慈円は、天台座主という、延暦寺でもっともたかい地位にあった。ということは、当時の坊さんのなかで、社会的なランクはナンバーワン。そのうえ、父親も兄も関白といううまれだった。

 平家がほろびたあと、鎌倉の源氏が武士のリーダーになった。でも、源氏将軍の血筋は、実朝が暗殺されて絶えた。このとき、後鳥羽上皇は『武士の力をうばうチャンス』とかんがえた。そこで兵をあつめて鎌倉を攻め、完璧に負けてしまった。上皇は隠岐島にながされ、北条一族がかなめ・・・になって幕府はその後もつづいていった。

上皇が幕府と対決モードをつよめてたころ、慈円は『愚管抄』っていう本を書いた。日本の歴史をふりかえる本だ。そのなかで、強調されているポイントはふたつある。

 その一。天皇家と仏教は一体だということ。だから、さかえるときはどちらもいっしょにさかえる。天皇と寺院が、相手にうち勝とうとあらそうのはナンセンスだ。

 その二。関白も院も武士も、「天皇をたすける」という役割をになう点はかわらない。そうかんがえると、この国の政治はなん百年もおなじしくみ・・・でまわっている。このしくみが変わることはおそらくありえない。

「その2」について、慈円はこう説明する。君主がただしい政治をやらなかった場合――中国では、天下をおさめるのにふさわしいだれ・・がとってかわる。あたらしく君主になる人物は、それまでの皇帝と血のつながりがなくてもいい。でも、天皇家にうまれたものだけが日本では君主になると神仏がきめた。そのぶん、地位にふさわしくない「ダメ天皇」もあらわれやすい。だから、「天皇をたすける存在」がつねに必要とされる。時代とともにかわるのは、この「たすける存在」の種類だけだ。

「天皇と坊さんがこころをひとつにして国の方針をうちだす。関白と院と武士は、じぶん勝手をおさえてこれをささえる。権力の持ちぬしがそろって帝をたすければ、平和な世のなかがやってくる」

これが慈円の政治理解だった。だからかれは、後鳥羽上皇を批判してる。上皇は、武士との連携をこばんで、敵にまわそうとしたからね。

 関白の家にうまれ、じぶんは仏教界のリーダー。慈円は、ふたつのつよい勢力を内側から知っていた。だから、「権力者はたがいに協調すべき」という意見になったのかもしれない。ただ、こういうかんがえかたは、慈円ひとりのものじゃなかった。『平家物語』も、これと似た立場でかかれている。

 頼朝について、『平家物語』がどんなふうにいっているか、おぼえてるかい?

「ハンサムで、こどばも義仲のようにはなまっていない。ただし、身長はひくくて、顔はでかい」

 こうかかれてる。そして義経は―

「色がしろくて、背がひくくって、ひどい出っ歯」

頼朝はハンサムで、ヨシツネは色じろ。からだはどっちもちいさい、「手におえない怪獣」みたいな感じじゃないよね。清盛や義仲とは、あきらかにちがうキャラ設定だ。

 でも、頼朝は顔がでかくて、義経は出っ歯っていわれる。それぞれ、一ヵ所だけ怪獣的なんだ。ふたりとも、ほんとにそういう見ためだったかもれしない。だとしても、重要なのは、『平家物語』がそうかいたってことのほうだ。

 武士なんだけど、貴族社会にはいりこめる。かといって、貴族そのものにはなりきらない――頼朝も義経も、そういう人物として『平家物語』は語りたかったんだ。

 武士と貴族のハイブリッド。

この要素があったおかげで、ふたりは義仲や平家に勝てた。『平家物語』は、そうしたみかたを土台になりたってる。

 じっさいは清盛も、いろんな相手と協調できるひとだったらしい。後白河法皇が、息子の二条天皇と対立したことがあった。このとき清盛はしんぼうづよく、法皇と天皇、どちらともうまくやろうとした。その努力を、慈円も『愚管抄』のなかでほめてる。

 だれがいちばんえらいのかわからない――そんな世のなかで勝ちのこれるのは、異質な勢力と組めるやつだ。このかんがえを、『平家物語』も『愚管抄』もつたえようとした。当時は、多くのひとがおなじような意見をもってたんじゃないかな……

 おじさんの説明を聴いて、ぼくはだいたいなっとくした。でも、ぼんやりした悲しみみたいなものが、みぞおちのへんでもやもやしていた。清盛も義仲も、『平家物語』にはあんなにおもしろくかかれている。あれは、生きのこれない「ダメな武士」の例をみせるためだけなんだろうか……

「頼朝や義経の外見なんて、どっちも二行ぐらいでおわりだよ。でも、清盛が死ぬところはなんページもある。猫間の話もながい。どうして『平家物語』には、ダメなやつのことのほうをくわしくかくの?」

 おじさんは、ぼくがいうのをきいて目をつむった。それから右手の親指で、右のまゆ毛のつけねをなんどか引っかいた。

「きみのともだちに、生きのこれなかった子はいないだろう?」

 おじさんは、もういちど目をひらくといきなりこんなことをいった。おもってもみないせりふだった。ドキッとして、ぼくは心臓がとまりそうになった。

「おじさんのともだちや親戚は、おおぜい、戦争で死んだ。

 人間は、うまれてきた以上、手だてをつくして生きのびなければならない。でも、生きのこってしまうとね、死んでいった連中のことがわすれられなくなる。そのひとたちの命が、どれほど輝かしかったか。そういう命がうしなわれたことが、どんなにひどいことか。頭のなかにへばりついてひきはがせなくなる。

 中学生のころ、いちばん仲がよかったやつは、水泳がとくいだった。あだ名はカッパ。けれどそのカッパはね、川でおよいでるさなかに、戦闘機に機関銃で撃たれて死んだ。

 源平合戦の時代にも、たくさんのひとが亡くなった。そのひとたちへのおもいが、『平家物語』にはこめられてるのをかんじる……」

 おじさんはいっしゅん、顔をしかめてだまった。

「いま、おじさんがいったこと、きみにはピンとこないよね?」

 いいおわるとおじさんは、あかるい笑顔になった。ぼくはほんわか・・・・してしまって、正直に首をたてにふった。

「うん、それでいい。一生、ピンとこなければいい」

 それからひと月ほどして、おじさんは図書館からいなくなった。お父さんが亡くなって、実家のお寺をつぐことになったらしい。

 さいごにあった日に、おじさんはふるいLPレコードをくれた。

「いちばん気にいってる曲の、いちばんだいじな演奏。

おじさんがわかいころに、いろんなことを教わった先生がいる。先生は戦前、たくさん本をだしていた。そのせいか、敗戦のあと、軍の手さきになって侵略を正当化したって非難された。出版社からも新聞社からも、相手にされなくなってしまった。

もちろん先生は、権力におべっかをつかうような人物じゃない。でも、そういう気骨があるからこそ、言いわけめいたことは口にしなかった。

作家も評論家も、そろって先生を黙殺したよ。そんななか、先生を慕って、ずっと面倒をみてる小説かきがいた。この小説かきは、チャンバラ小説で売れてたけど、音楽エッセイが素敵でね。先生をささえてて、文章も達人ってことで、おじさんは尊敬を感じていた。直接、口をきいたこともなかったんだけどね。

それで、その小説かきが、このレコードをほめていて――以前からすきな演奏だったから、それを読んだときはうれしかったなあ。

そんな、ちょっとした思い出のあるレコードだ。おとなになったら聴いてくれ」

 そういって、紙づづみにはいったそれをわたしてくれた。

 ベートーヴェンのさいごのピアノ・ソナタのレコードだった。弾いているのは、ヴィルヘルム・ケンプっていうドイツのピアニストだ。

前の記事:

存在の抽象化から思考の抽象化へ次の記事:

世界に羽ばたく
未来を創る
総合教育のブリタニア

お問合せフォーム

電話でのお問合せ(14時〜21時)03-3629-8681