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楽しく学ぶ倫理学 第4回 倫理学と人間の関係

「人間の学」としての倫理学

これまで見てきたように、倫理学とは人間がなすべき規範を具体的な事例や局面に即して考察しようとする学問なのだった。この場合、善をなすべき主体は人間であり、そのため倫理学の中心には自ずと人間が位置することになる。

この点を明確にしたのが、日本を代表する倫理学者の一人である和辻哲郎である。和辻は倫理学とは何かという問いに対して「倫理」という言葉、倫理という漢字表現そのものに注目する。倫理とは文字通り言えば、「倫」の「理」である。理というのは「ことわり」であり、物事の本質を意味する。世の理(よのことわり)は世界を貫く理法である。ここで「理法」というのは、理というのは法と同じ意味であり、法であるところの理ということである。この意味での法は当然「法律」にいう法とは全く同じではなく、もっとより根源的な意味である。それは仏教やヒンドゥー教で言うダルマ(サンスクリット語。パーリ語ではダンマ)であり、世の中を貫く根源的な法則である。(ちなみに後に触れるヘラクレイトスはこのダルマに当たるものを「ロゴス」と表現した)。つまり、倫理とは「倫のことわり」である。では倫とは何なのか?

和辻によると、倫とは仲間を意味するという。従って倫理とは仲間の間の筋道や秩序、決まりごとである。だから人間は倫理があって初めて、人間足り得る。というのは、人間は一人では生きてゆくことができず、常に他者との関わりに中でのみ生存可能な存在だからだ。このことはまた、そもそも「人間」という言葉自体にも示されている。人間は、現在は専ら「にんげん」と読み、人のことを意味するが、元々は「じんかん」と読まれ、個々の人ではなく、世間や巷を意味した。和辻にここに、人間存在の根本に関する深い意味を読み取る。つまり人間とは、人と人との間にある存在であり、間柄的な存在であると。従って倫理とは、その本質が間柄的な、つまり社会的な存在である人間(=じんかん)の根本構造を問うことである。かくして「人間の学としての倫理学」というのが、和辻が与えた倫理学の定義である。

我々はこの古典的定義に対して、賛否両論を持つ。倫理学の主題が人間であり、しかもその人間を社会的な存在として捉えていくというのは、適切な問題設定である。確かに倫理学が問題とするのは善悪や幸福といった観念であり、これらが人間にとって重要なこと、それどころか最も重要なことですらあると、多くの人が思うのではないか。そして善悪や幸福といった問題を考えるにあたっては、抽象的で超時間的な「善そのもの」や「幸福それ自体」を考えるだけではなく──そのような方向での思索も重要だが──、社会生活において問題になる個々のケースにおける適切な選択の確定や、社会それ自体の基本的なあり方、望ましい政治や経済のシステムはどのようなものであるのかといった問題を考えることもまた、重要だと思われる。つまり善悪や幸福を社会問題という具体的な次元で考察する必要があるということだ。この意味で、倫理学は確かに(社会的存在としての)人間の学であるべきだ。

しかしここに大きな疑問が浮かぶ。それらは、つまり善悪や幸福といった倫理学の主題は、確かに人間に関わることであるが、専ら人間に「のみ」関わることなのかという疑問である。

実はここに、旧来の倫理学を現在の倫理学と区別し、倫理学の歴史を、伝統的倫理学と「現代倫理学」に分ける大きな分水嶺がある。それはどういうことなのか。

 

伝統的倫理学における人間と動物の位置付け

和辻は倫理学を人間の学だとしたが、これは新規な考えではなく、むしろ倫理学の伝統に沿っている。和辻が強調したのは、旧来の倫理学が人間を中心概念にしていたということそれ自体ではなく、自立した個人という人間像があたかも普遍的な人間のあり方として想定されているという、個人主義的な人間観だった。これは西洋近代に典型的な人間像を人間一般のあり方だとみなす、西洋中心主義的な偏見である。

和辻はカール・マルクスに倣って、人間が本源的に共同体的な存在であり、自立した個人という人間のあり方の方が歴史的に特殊なことを注意する。従って問題なのは人間を倫理学の中心に据えることそれ自体の是非ではなく、中心に置かれるべき人間の捉え方だった。この点では、和辻が範を求めたマルクスも同様である。

マルクスは『資本論』で、人間の本質をtool making animalと捉えたベンジャミン・フランクリンを称えた上で、道具を作る行為である労働を、人間にとって最も重要な活動だと考えた。だから、労働のあり方にこそ人間の人間たるゆえんがある。ある種の動物も何かを作る活動をするが、何かを作る道具を作り、道具を改良し続けて生産力を上げようとするのは人間のみである。このような人間労働の特長をマルクスは、蜂の巣作りと対比して際立たせている。ここでマルクスが蜂の「労働」にはない人間労働の優れた特性として挙げている点は、蜂と異なり人間は、作る前に作る物のあり方を構想し、明確な目的を持って労働を行う点にあるとした。つまり、蜂とは異なりその労働に目的意識性があるところが、人間の優れている点だとしたのである。このように、動物との対比で人間の美点を明確にするのは、マルクスの一貫した態度である。若き日の『経済学・哲学草稿』でも、動物はただ本能に従って生産するだけだが、人間は美の法則に従って生産すらするというように、人間の動物に対する優越を謳っている。

このような思考様式はマルクスに限らず、西洋哲学史一般の基調であった。後に義務論の代表者として詳しく見ることになるカントは、人間をただ単に手段として扱ってはならず、同時に目的としても扱わなければならないとして、人間の尊厳を、人間が目的的存在であることに求めたが、これは人間とは逆に、専ら手段として扱われるべきものとの対比の上であった。そのような存在の代表はカントによれば商品や貨幣である。確かに商品や貨幣を至上目的のように扱う者がいたら、我々はそのような人々を、物欲に囚われた守銭奴的なあり方に堕ちていると非難したくもなるだろう。貨幣は専ら使用されるべき存在であって、それ自体を目的として扱うべきではない。

このように、人間の尊厳をそれが目的的存在であることに求めることにより、目的であるべきではない存在が目的になることの転倒性を批判できるのは、カント理論の優れた特質である。ところがカントは、動物は人間の側ではなく、商品の側に属する存在であるとした。動物は商品や貨幣と同じく、物に過ぎないのである。だからといってカントは、動物はぞんざいに扱われていいとはしなかった。むしろ人間は動物を虐めたり、好き勝手に殺生することによって、その性格に残忍さの影を宿すことになり、ひいては人格を荒廃させるとした。だからむしろ動物に対して思いやりのある態度を取るほうが、人間性を高めるという理由で、望ましいとした。しかしこれは、奴隷所有者が奴隷を大事に扱うこと以上ではなかったのである。

こうして、これまでの倫理学では基本的に、考察の中心が人間に置かれ、人間の独自の価値が専ら人間以外の存在、取り分け動物との対比で際立たせられるという理論構成を取っている。いわば人間を高めるために動物を低め、人間の本質を、人間が動物ではないという点から明らかにしようとしてきた。ではこのような考えはどこに由来するのだろうか?

 

人間の地位

恐らくそれは、西洋哲学の最も重要な二つの源流、アリストテレスとキリスト教に由来する。

アリストテレスは古代ギリシアの哲学者であり、キリスト教以前の人物だが、その教説が後にトマス・アクィナスを代表とするスコラ哲学者によって、キリスト教説の哲学的基礎とされることによって、西洋世界の最も重要な知的権威となった。そのアリストテレスは、人間を階層的な生命秩序の中に位置付けていた。

アリストテレスは生命をその機能の別により、階層的に区分する。最も基本的な生命のあり方は生殖や栄養摂取などの、生命の最低限の前提で、植物的な生命である。これに運動や感覚という機能が付加されると、動物的な生命になる。この区分で言えば、当然人間は動物的な生命ということになるが、アリストテレスによればしかし、人間は動物以上の存在である。つまり人間的生命には動物的生命に加えて、「ロゴス」が加わっているとするのである。このロゴスこそが、後に理性と訳されて、人間を動物から区分する基本的指標となったものである。人間は単なる動物ではない。理性的な動物である。従って人間は動物とは根本的に異なる尊い存在である。これがアリストテレスの人間観であり、後の西洋人が遍く共有することになる常識である。

こうした階層的な人間観はアリストテレス自身にとっては、今風に言えば一人の自然科学者として、動植物の綿密な観察から導き出した科学的仮説に過ぎなかった。それは神の実在が彼にとっては、運動の原因として論理的に導かれたように(アリストテレスによれば、運動する物体には運動を始めさせる原因(始動因)がある。始動因を遡ると、それ自体は動かないが、それによって他のものが動かされる「不動の動者」に行き当たる。それが神である)、あくまで生物界の合理的な説明として提起されたものである。だからこの仮説を覆すような強力な反証があれば修正されるはずの、一つの説明以上のものではなかった。

ところが後のキリスト教徒は、アリストテレスにあっては仮説であったものを、絶対的な真理に変えた。まさに神がそのような階層的な世界を作ったと。こうして、人間は神の似姿として、動物とは絶対的に異なり、動物よりも本質的に尊い存在であると、疑問の余地なく確定した。

これが、伝統的倫理学の背景をなす大前提である。このようなキリスト教的常識に囚われていたため、カントは動物を物体の側に置くことができた。そしてこうした人間を特別視する思考様式は、キリスト教の痛切な批判者であったはずのマルクスにも共有されていたのである。つまり人間を動物から区別するという思考様式は、信仰の有無に関わり無い西洋人一般の常識として、観念論か唯物論か有神論か無神論かといった理論的立場を超えて、広く哲学者や倫理学者の間に染み込んでいたのである。だから、西洋哲学を学んで自らの倫理学体系を打ち立てようとした和辻が、それを「人間の学」としたのも、もっともなことだったのである。

 

現代倫理学の位相

しかしこの大前提こそ、現代倫理学の大いに疑うものである。人間は動物とは異なる特別な存在である。人間は動物にはない理性を持つがために、尊い存在である。こうして人間を他の存在者、とりわけ人間に近い動物と比べてその違いを際立たせる思考様式、こうした考え方の帰着点は、この世界は特別に尊い存在である人間を中心に回っているのであり、人間以外の存在は人間という目的的存在に対しては手段的な位置にあるという人間中心主義(アントロポセントリズム)である。このような人間中心主義に至る思考の前提、人間を特別視する思考様式に本格的な自省をするかしないかが、倫理学を新旧に分けるメルクマール(基本的な指標)だと、我々は考える。つまり、人間の絶対視と相対化の別が、伝統的倫理学と現代倫理学を分かつ分水嶺だと考えるのである。

人間は動物と本質的に区別される存在ではなく、人間という動物であることは、ダーウィン以降に生きる我々の常識であるはずだが、哲学や倫理学の世界では、ダーウィンの衝撃を受けて直ちに常識化したわけでもなければ、現在においても疑いえない前提として受け入れられているわけでもない。ダーウィン以前のカントに人間と動物の絶対的区別というキリスト教的前提があるのは致し方ない。しかしマルクスはダーウィンの同時代人である。ダーウィンの進化論は、生産の方式は歴史的に変化するものだという年来の確信を裏付けるものとして、マルクスは両手を挙げて歓迎した。だが、ダーウィンの理論が示唆しているはずの、人間と動物の区別の相対化という観点は、マルクスの認めるところではなかった。和辻はダーウィンよりずっと後の人であるが、彼の倫理学はただ人間を扱うのみで、人間以外の存在は主題になりようもなかった。

勿論、全ての哲学者や倫理学者が、人間を動物と絶対的に区別する、人間中心主義的偏見にとらわれていたわけではなかった。ヒュームや、後に詳しく検討するベンタムなど、人間と動物の親近性を訴えていた哲学者も、いなくはなかった。しかしそれはあくまで例外的な少数者であり、それら例外的な賢者にあっても、人間を完全に相対化するような倫理学説を打ち立てることはなかった。まさに20世紀になってやっと、非人間中心的な倫理学が本格的に説かれ始めたのである。

こうして我々は倫理学をはっきりと、新旧二つのあり方に区分することができる。倫理学は、それが古代ギリシアに生まれてからずっと、長きに渡って人間中心主義的な、人間の学としての倫理学だった。そして今に至るも、主流になっているのは倫理学をあくまで人間の問題にのみ縮減する、伝統的な思考法である。これに対して、その水脈は古代から連綿とあるものの、20世紀になって初めて本格的に議論され出した、非人間中心主義的な倫理学がある。この倫理学こそが、真に新しい倫理学のあり方である。だがこの「現代」倫理学は、倫理学研究の世界において主流的な考えになり得ていない。

しかし、現代が提起する問題、特に最も重要な地球環境問題は、人類に対して、人間を特権視する従来の大前提を放棄することを求めているように思われる。これに呼応して、善悪や幸福を主題として人間がどう生きるべきかを問う倫理学も、人間の学であるに留まることは、今や許されなくなってきている。まさに人間を超えて、非人間中心主義的な現代的形態に脱皮することが求められているのである。

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