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楽しく学ぶ倫理学 第12回 禁欲と義務(西洋古代倫理学小史その八)

エピクロスは快楽の量と質を測り、結果的にはむしろ苦痛のない状態こそがアタラクシアをもたらすと考えて、肉体的な快楽を積極的に追求するのではなく、精神的な快楽を重視した。その意味で、エピクロスの方法論は、後世のベンタムを全く先取りしたものだった。エピクロスの快楽主義は古典的な功利主義の直接的な祖先といえる。

これに対して、カントを代表とする義務論の祖先に当たるのが、ストア派である。しかしエピクロスにアリスティッポスがいたように、ストア派、特にその始祖であるゼノンにも先行者があった。それはキュニコス派である。

 

何物にも囚われないこと

キュレネ派のアリスティッポスがソクラテスで弟子であったように、キュニコス派の始祖であるアンティステネスもソクラテスの弟子であった。そしてその思想はまさに、アリスティッポスと反対であった。アンティステネスがソクラテスに見たのは、何事にも動じない克己心であった。アンティステネスの見たソクラテスは、あらゆる欲望に打ち勝って己を全うした、哲学者の鑑であった。ここからアンティステネスは、禁欲こそが有徳になるための王道だと考えた。

ソクラテスは地位や名誉、特に金銭に囚われずに魂を磨くべきことを訴えたが、アンティステネスはまさにソクラテスが囚われの原因としたことそのもの、つまり所有それ自体を否定した。何にせよ何かを持てば、自らの持ち物に囚われ、魂が曇らされる。だから初めから何物も持たないことこそが最善である。何も持たない者は乞食である。だからアンティステネスは、乞食のように生きることが、人間にとって理想だとした。乞食のように生きる賢人たちに、世間の人々はまるで犬のようだと冷笑した。しかしアンティステネスはまさに自分は犬だと、シニカルに答えた。だからキュニコス派は犬儒派と言われ、世間をものともしないその態度は、シニカルという言葉の語源になった。

キュニコス派が否定しようとする所有物は、自分自身の社会的な帰属にまで及んだ。性別、人種、国家、これら社会的アイデンティティの指標をも、彼らは否定した。こうして残ったのは、ただ人間であるという基本属性のみである。どこの誰でもない一人の人間、これがキュニコス派の人間観であった。だから人間には本質的な区別はなく、平等である。そして人間はどこかの国民である前に、一人の普遍的な市民である。キュニコス派の人々は、自らをある特定のポリスの住民でなくて全てのポリスの住民だとした。つまりコスモポリタンだと。これがコスモポリタニズムの起源である。

人間の平等を訴え、国籍を否定する彼らの言動は、極めて先進的なものであり、時代を大きく先駆けるものであった。まさに現在においてこそ、大きな説得力を持つ考え方だといえよう。

 

ロゴスに従って生きる

ストア派の創始者ゼノンは、アンティステネスの弟子であるクラテスの弟子だった。従ってストア派にとってもまた、人生の目的は善く生きることであり、ソクラテスのような有徳な存在になることだった。この場合ストア派ではエピクロスとは異なり、行為の結果として善い状態を実現するという考え方ではなく、善は徳そのものであり、それによって何かを成すためではなくて、それ自体として追求されるものだった。この際、ストア派にとって有徳な行為とは、「ロゴスに従って生きる」ということだった。

これは当然、ヘラクレイトスの思想を継承したものである。ストア派は、ヘラクレイトスの思想を具体化し、体系化しようと試みた。ストア派によれば、ロゴスとは自然であり、自然はまた神である。彼らの考えでは、世界には能動的な形成する原理と、受動的な形成される原理がある。前者が形相で、後者が質料となる。ロゴスは形相的な原理であり、神にして永遠に燃える火であるとされる。ストア派の特徴は、形相をプラトンやアリストテレスのように、質料と質的に異なるものはせずに、両方共「物体(ソーマ)」、つまり質料的なものだと考えることにある。だから神といっても非物質的な精神的原理ではなく、物質的なものである。つまり世界には物体という一つの原理しかないという一元論であり、全てを物だと考える、極端な形の唯物論である。

このように、ストア派の神=ロゴス観は、プラトンやアリストテレスを継承している現在の我々の常識的な神観念では理解しがたいが、このようなそれ自体が一つの物体である形成原理であるロゴスが自然を貫いているから、ロゴスに従うことが人間とって自然なことであり、人間にとって望ましい有徳な生き方ということになる。ということは、ストア派によれば、人間は注意しないとロゴスから逸脱して、不自然になる傾向性があると考えていたことになる。この意味では、ストア派はヘラクレイトスにはない新たな論点を加えたことになろう。人間は自ら善を選ぶことはできず、既にあるロゴスに従うことしかできないが、ロゴスに従うことは意識的な努力が必要な、それ自体倫理的な行為だということである。

しかし、倫理的な行為といっても、ロゴスそれ自体は予め決定されており、人間が新たに善を作り出すことはできない。人間ができるのは、ロゴス=自然に従い、運命を受け入れて、何事も動じない心持ちになることである。このような不動心(アパティア)を得ることがストア派の倫理学の目標である。

ストア派では何事にも動じなくなった賢者こそが真の自由を得るのだとする。そして自由であるということは、自主的に行動できることだとする。

しかしここでいう自由は、矛盾を孕んでいるように思われる。というのは、自由な存在としての賢者が自主的に行うことは、有徳者として、何よりもロゴスに従うことであるはずだが、ロゴスに従うということは、あらかじめ決定された運命を受け入れることだからである。我々は通常自由であるとは、その存在の為す行為が、最終的にその存在自体を原因にして決定されることだと考える。つまり、無制限ではなく、状況によって制約されてはいるものの、選択の結果が最終的に選択それ自体によって決定される時に、その存在は自由だといえるのである。従ってある存在が自由かどうかは内面的な状態ではなく、その存在が置かれている客観的な現実によって判断される。自然であるロゴスは決定論的な原理であり、ロゴスに従うことを善とすることは、未確定の未来が人間自身の選択によって創出されるという、本来の意味の自由を認めないことである。従って、ストアの賢者は、本当は自由ではない。

ストア的な自由が言えるとしたら、それはあくまで精神的な次元での自由である。ロゴスに従ったところで、ロゴスそれ自体を従う側の人間が変更できるわけではない。無自覚に流されるよりは自覚して受け止める方がマシかもしれないが、運命それ自体は変えることはできないのである。現状に心を動かされないという意味で、精神的に自由になれても、現実それ自体を変えて、自由な現実を創出することはできないのである。

これは支配する側にとっては、実に都合の良い思想である。心の持ちようを変えて、現状をそのまま受け入れてくれるのだから。奴隷を支配する側は、奴隷であっても心は自由だという賢者には脅威を感じないが、実際に奴隷の鎖をひきちぎろうという者には恐怖する。こう考えると、ストア派がローマ帝国の公認哲学になったのも頷ける。厳しい現実もそれとして受け止め、不動の心によって自由を楽しむという倫理学は、一方で厳しい現実を生きる人に確かな慰めを与える。他方で、厳しい現実そのものはそのまま受け入れられる。こうしてストアの教えは、支配者と被支配者、双方のニーズに適ったものだったのである。

 

義務論の端緒

ストア派では、徳はそれ自体のために追求され、徳にかなった行為それ自体がカテーコン(ふさわしい行為)だとされた。苦痛のない状態を行為の結果として求めるエピクロスとは反対に、カテーコンはそれ以外の目的を想定せずに追求されるべき義務である。ここに、後の義務論的な倫理学の原型がある。

義務論を体系化したカントでは、義務は有徳な賢人の理想と切り離された。義務は内面的な命令と見なされ、有徳な賢人になるための陶冶というストア派の本義は、後景に退くことになった。この意味では、あくまでストア派の理論は現在の倫理学にいう義務論そのものではないが、倫理規範を義務の体系と考える点では、義務論的な思想である。エピクロスが功利主義の起源であるように、ストア派もまた義務論の思想的源泉である。

 

こうして、駆け足であるが、西洋の古代倫理学を振り返ってみた。そこには、決定論や選択、それに人間の自由という、倫理学の中心論点が既にいくつも提起され、議論されていた。また、快楽主義や禁欲主義というような、倫理上の基本的な立場を確定しようという試みがなされていた。勿論ここで取上げたのは西洋古代倫理学の全部ではなく、一部でしかないが、それでもそこには現代の倫理学につながる貴重な思想的資源が含まれているのであり、これを学ぶことは、現代において様々な倫理的問題を考える上で、有益なヒントとなるといえるだろう。

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