コラム
プロ講師のコラム The Owl at Dawn
芭蕉は「俳諧における漱石」だったのか?
〇他人に疲れる漱石/他人が恋しい芭蕉
芥川龍之介の初期に、『枯野抄』という短編がある。臨終を迎えた芭蕉と、かれをかこむ門人、双方のようすが語りとられている。これが書かれる前年、夏目漱石が他界した。芥川は、多くのきょうだい弟子とともに恩師の終焉にたちあった。その折にもよおした感慨が、この作品には託されている。
芭蕉と漱石には、共通点が多い。ほぼ同年齢――五十歳前後――で、消化器系に病を得て亡くなった。ひとつの文芸ジャンルの確立に、決定的な役割をはたした(芭蕉は俳諧・漱石は近代小説)。門下生をおおぜい従えてもいた。
ただし、気質面には懸隔がある。漱石は、他人に接すると疲弊するタイプ。教職をすべて辞し、朝日新聞の専属になったのも、講義を苦にしていたのが一因だ。「人ぎらい」というより、気くばりがすぎて神経をすりへらす性質であった。
いっぽう芭蕉は、連句の進行役(=さばき)を「本領」と自認していた(「発句をつくることにかけて、同等とおもう相手はいる。わたしが抜きんでているのは、連句のさばきとしてである」と公言している)。「芸術家」である以上に天与の「組織者」。死病を発してからも、句会になんどか顔をだした。義務感もあったろうが、ひととまじわるのを苦にしなかったことがうかがえる。
〇漱石は「優等生」/芭蕉は「BLヤンキー」
ふたりの性格のちがいは、それぞれの青年時代からすでにあきらかだ。
漱石は、幼少期には養子にだされるなど苦労をした。だが、学業成績は抜群。思春期以降は、エリート候補として周囲から期待され、当人もそれによくこたえた。
「第一高校を首席で卒業した」
「『方丈記』を英訳し、ネイティヴ教師から絶賛された」
―-漱石の学生時代にまつわる挿話は、この種の「秀才伝説」で埋めつくされている。
では、若もの時代の芭蕉はどうだったのか?
かれは伊賀の国の「無足人」の家にうまれた。「無足人」とは、名字帯刀はゆるされてはいるが、くらしは農業で立てている層。武士と農民、どちらともつかない立場におかれている。それだけにかえって、「ただの百姓とはちがう」という気位もたかい。
しかし――戦闘員であることをやめるよう、武士が体制から強いられる。芭蕉が人となったのは、そういう世相においてであった(この点については、西鶴について論じた章でくわしくふれた)。
さむらいの任務が「事務職」に転じていった江戸初期。戦場で発揮されるはずだった「暴力性」をもてあます下級武士たちがいた。かれらは、自己破壊的で奇矯なふるまいをくりかえす。これに、一部の町人が同調。こうしてうまれた無頼派集団を、世間は「かぶき者」や「奴」とよんだ(これについても西鶴の章でのべた)。
武士の誇りをもちながら、武士である証しをたてることができない――「無宿人」の子だからこそ、芭蕉はそのことになやんだのだろう。若き日のかれは、「奴」的なありかたにひかれていた。この性向は、藤堂良勝との出会いによって決定的なものとなる。
良勝は、名門の嫡子であり、津藩の藩主とも血のつながりがあった。俳諧もたしなみ、号は「蝉吟」。かぞえで十九の芭蕉は、この良勝のもとに出仕した。厨房にかかわるしごとを担当したようだ。
良勝はめぐまれたそだちのお坊ちゃんだが、病弱だった。ながくは生きられない宿命を悲観してか、無頼なふるまいも多かった(アメリカでヒップ・ホップをいちばん聴く層は「名門高校の落ちこぼれ」らしい。この挿話は、良勝の精神のありようを彷彿させる)。二歳齢下の芭蕉を、かれは溺愛した。ふたりはやがて、性的にも愛しあうようになる。
男性どうしの情交は、当時はめずらしくない。とくに「かぶき者」のあいだでは好んでおこなわれた。命を賭して、同性の相かたに忠義だてをする。無頼の青年たちは、そこに「美」をみいだした。この「美」意識は、ほどなく異性愛の側までひろまっていく。こうしてうまれたのが、近松の「心中もの」であった。
生きつづけて、家を背おってたつ。そんな「こたえきれないはずの期待」を寄せられて、良勝は苦痛だったろう。そこに、生きる途をふさがれた少年・芭蕉があらわれた。じぶん同様、いまここに在るじぶんをうべなえない男――良勝にとって芭蕉は、「ようやく出会えた同属」であった。
はたち前後の漱石が、正岡子規と濃密な関係をもったことはしられている。ふたりのあいだに、同性愛的感情があったとみる説もある。が、文筆で覇をとなえるための切磋琢磨――あくまでこれが、かれらの友愛をささえる礎だった。
ふたりのりのバイクで、夜の道路を爆走する。良勝・芭蕉の主従関係は、そんな「古典的ヤンキー」のすがたにちかい。そして、江戸初期の俳諧は、ふたりのような「やんちゃ」にこそふさわしい遊戯。「高尚な芸術」にはとおかった。芭蕉は良勝にみちびかれて、この「柄のわるいゲーム」にはまっていった。
〇死にたがり屋の生き上手
「生きられないなら、生きなくていい」
そんなまなざしを芭蕉にむけることで、良勝は自身の痛みをも慰撫したにちがいない。同時に芭蕉にたいし、こんなおもいも抱いたのではないか。
「生きたくないおまえだからこそ、生きつづけてほしい」
美化されたじぶんの似すがた――良勝と芭蕉はおたがい、相手のなかにこれをみていた。これほど幸福な恋人たちはいない。ふたりの絆はしかし、四年間で断ちきられる。良勝が、二十五歳を一期として没したのである。
良勝との永訣を機に、芭蕉は藤堂家を去った。以後数年、どのように暮らしをたてていたかさだかでない。俳諧に励んではいたものの、それで口を糊するのはまだむりだったようだ。
二十九歳になって、はじめての著述を芭蕉は上梓する。自作をふくむ六十の発句を三十のつがいにし、優劣を判じて評をしるす。そういう形式で編まれたこの書に、芭蕉は『貝おほひ』の題をあたえた。そこには、表通りで刃物をふりまわすがごとき客気がみなぎっている。
《 二番
左勝 此男子
紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ
右 蛇足
兄分に梅をたのむや兒櫻
左のあかいこんぶくろは。大坂にはやる「丸のすげ笠」と。うたふ小歌なれば。なるべし。
右梅を兄ぶんに頼む兒櫻は。尤頼母敷きざしにて。侍れども。打まかせては。梅の發句と。聞えず。兒櫻の發句と。きこえ侍るは。今こそあれ。われもむかしは衆道ずきの。ひが耳にや。とかく左のこん袋は。趣向もよき分別袋とみえたれば。右の衆道のうは氣沙汰は。先おもひとまりて。左をもって爲レ勝と。》
( 二番
左勝 此男子
紅梅のつぼみは赤い玉袋
右 蛇足
兄貴分として梅を頼るのか兒櫻は
左の赤い玉袋という言いまわしは、大坂ではやっている「丸のすげ笠」とうたう小唄にちなんだものであろう。
右の梅を兄貴分として頼る兒櫻は、このうえなくたのもしいきだてであるが、ちょっと聞いただけでは、梅の発句には聞こえず、兒櫻の発句と聞こえるのは、いまはともかく、わたしもかつては衆道が好きだったせいで聞きちがえをしたのだろうか。とにかく左の玉袋は、趣向もよく、よく役にたつふんべつ袋とみえるので、右の衆道の色恋ざたをひいきしたい気持はとりあえず抑えて、左の勝ちとする。)
「木=気」や「ふんべつ=分別」といった掛けことばの連打。卑わいな話柄に踏みこみ、「衆道好き」をカミングアウト――当時、「奴」は総じて、この種のものいいをこのんだ。とはいえ、ここにみえる「ことばの勢い」は尋常でない。
「無難ないいまわしで身をまもる」
心のうちにきざすそんな「邪念」を、必死になってつぶす。そういう焦燥感が、『貝おほひ』の筆致にはあふれている。これを書きながら、おそらく芭蕉はこうおもっていた。このまま生きのびてしまったら、「良勝が愛したじぶん」はいなくなる――。
『貝おほひ』出版の三年後、芭蕉は江戸に下向する。
京、大坂、名古屋――江戸開府以前から繁栄していた都市では、有名俳人が勢力を張っていた。「新興都市」である江戸のほうが、無名の新人にも活躍の余地がある。そういうソロバンを芭蕉なりにはじいての「東下り」であった。
すでにふれたとおり、良勝は俳諧をこのんでいた。亡君への追慕が、この芸で立身をめざす動機にもなっていたはずだ。とはいえ、成功のためのあざとい計算は、「かぶき者」の精神にもとる。
「江戸に行けば、ひとかどの俳諧師になれる」
それがみえてしまうじぶんを、ゆるしがたくおもうが抹殺もできない。この矛盾は終生、芭蕉をなやませた。
江戸におもむいても、俳諧で暮せるようになるにはしばらく時間がかかった。移住後三年目には、神田上水の工事監督のような職についている。この種のしごとに必須の、人材を掌握し管理する力。芭蕉はこれにたけていた。人間ずきで、ひとをたばねてうごかすことに興味をもつ。生来かれは、そういうたちであった。この性癖は、のちに連句のさばきや俳諧宗匠として大を成すたすけにもなった。と同時に、この気質に身をゆだねきったとしたら――良勝とともに遊んだ破滅のがけっぷちは、彼方へとおざかる。
「生きられないなら、生きなくていい」
そういって芭蕉をいとおしんだ良勝は、いっぽうでかれに生きのびることをもとめた。
「生きたくないおまえだからこそ、生きつづけてほしい」
破滅にひかれながら、あらゆる手をつくしてサヴァイヴする。生と死にひき裂かれて在ることを、芭蕉は強いられていた。良勝のような恋人をもち、そのかれと死別したもののそれが宿命であった。
○芭蕉が西鶴をきらった理由
工事にかかわりはじめたつぎの年には、芭蕉は俳諧の「師」とみとめられたらしい。とはいえ、独自の句境を切りひらくまで、さらに七年余がついやされた。
貞享元年(1684)、四十一歳の芭蕉は、西国への旅にでる。その道中の記録が、紀行文第一作となる『野ざらし紀行』である。また、このとき名古屋にも立ちよって、尾張の俳人たちと句会をもよおしている。そこで詠まれた作を軸に、七部集の劈頭をなす『冬の日』が編まれた。この二作を境に、芭蕉は「芸術俳諧」の道にはいっていく。
『野ざらし紀行』は、こんなふうに幕をあげる。
《千里に旅立て、路粮をつゞまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、風の聲そゞろ寒げ也。
野ざらしを心に風のしむ身哉
秋十とせ却て江戸を指古郷
關こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き(中略)
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計の命待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物投げてとをるに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝、ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝハ汝を悪むにはあらじ、母は汝をうとむにはあらじ。唯これ天にして、汝が性のつななきを泣け。》
(ながい旅にでようと、旅費ももたず、「深夜、月の下で無心の悟りに入る」といったという、昔のひとの生きざまだけをささえにして、貞享甲子の年の秋八月、川べりのあばら屋をあとにするこのとき、風の音がむしょうに寒ざむしく聞こえる。
ゆきだおれの骸骨になる覚悟をしたこの身に、風のつめたさが骨までしみてくる……
この地に来て十度目の秋、「故郷」といえばここ江戸のこととおもうようになった。
箱根の関を超える日は雨が降り、山なみはすべて雲に隠れている。
霧雨が降りこめて富士がみえない。そんな今日のような日こそ趣きぶかいのだ。(中略)
富士川のほとりを歩んでいくと、三歳ぐらいの捨て子が、かわいそうなようすで泣いている。この川のはやいながれをかきわけるようにして、浮世の波にあらがって生きていく。そのいとなみを、この子の親はやりとおすことができず、露のようにはかない命のおわりを待つあいだ、おまえはここにいろと捨ておいたのだろう。
まさしく、小萩にむすばれた露のごとく、秋風をうけてそこなわれようとするこの子の命は、今宵散るだろうか、明日には萎むだろうか。みかねて懐の喰いものをあたえてとおりすぎる折に
猿の鳴く声に悲しみを聴いたいにしえびとよ! 捨て子が風に吹かれて泣く声をあなたはどう聴くのか。
どうしたのだ、捨て子よ。父に憎まれたのか、母に嫌われたのか。父はおまえを憎んだはずがない。母がおまえを嫌ったはずがない。こうなったのはすべて天命であって、生まれつきの薄幸を悲しんで泣け。)
『貝おほひ』とちがって、悪ふざけのような言いまわしは控えられている。性にかかわる話柄もみえない。とはいえ、ほとばしるような筆勢はここでもあきらかだ。
当時の俳諧師のかく文は一般に、自在に連想をたどってつづられる。このため、優雅にゆったり、ではなく、軽快かつ奔放にすすんでいく。そうした傾向を考慮してもなお、『野ざらし紀行』の速度感は読むものを圧する。
文のいきおいは、著者の心理的・肉体的わかさの反映だ(三島由紀夫の『仮面の告白』と『天人五衰』、村上春樹の『羊をめぐる冒険』と『街とその不確かな壁』をよみくらべてほしい)。『野ざらし紀行』のことばはとうてい、四十路をこえた人間の手になるとはおもえない。
わかわしいのは、文体だけでない。富士がみものの箱根にいき、肝心の御山を霧でおがめずにおわった。それを、「こういう日のほうが趣きぶかい」とつよがってみせる。これぞ中二病、といいたくなるイキリぶりである。捨て子の段も、「骸骨になったじぶん」とみなしごをかさねようという趣向だろう(このときの芭蕉は、捨て子の親より齢うえのはずなのに。良勝に去られた「俺」を捨て子に投影している、とみるのはうがちすぎか)。おもてむきは、「無心の悟りに入る」つもりで旅にでる、とうたってはいるが――ここにみられる精神のはたらきは、閑寂をもとめる境地からとおい。むしろ、「奴」に特有の「世俗への呪詛」がうごめくのを感じる。
「揺れうごく若者」体質を、芭蕉はその後もたもちつづけた。『野ざらし紀行』の旅から三年、芭蕉はふたたび西にむかう。尾張から伊勢、伊賀、紀伊、大和を経て、播磨、摂津、京へ。行脚のようすは『笈の小文』にまとめられた。その冒頭にいう。
《風羅坊芭蕉
百骸九竅の中に物有。かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかうて、是が爲に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが爲にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、是が爲に破られ、つゐに無能無藝にして此一筋に繋る。》
(風羅坊芭蕉がしるす。
百の骨片に九つの穴、これらをあつめてできた人間にまじって物の怪一匹、仮りの名を風羅坊という。風に吹かれて薄ものがやぶれるごとく、脆くはかないのでこの名があるのだろうか。かれは長年俳諧をこのみ、とうとうこれを一生のなりわいにした。あるときは飽きてやめてしまおうとおもい、あるときは人さまと競って打ちまかそうといい気になり。やる気とやめる気が胸のうちであらそい、そのせいで身心おだやかでない。しばらくは世にでたいとねがっていたが、俳諧のせいでかなわず、仏道をこころざして悟ろうとおもっても、俳諧のせいで挫折、とうとう無能無藝のままこの俳諧ひと筋に生きる。)
名声への渇望と、そんなものをもとめるおのれへの嫌悪。あくまで「くだらないもの」として俳諧を愛そうとする「意気」。そのいっぽうで、俳諧においてだれにも負けまいとする「意地」。内心の葛藤が、ここには赤裸々につづられている。
それにしても。
これがかかれたのは、じっさいに旅をした数年後。芭蕉はすでに四十代後半にさしかかっていた。このころの常識からすると、「初老」といっていい。にもかかわらず、ここにかたられた苦悩は、青年がかかえるたぐいのそれである。
芭蕉は、この年齢にいたっても、「良勝が愛したおれ」を殺せずにいる。
西鶴もまた、「かぶき者」メンタリティをひきずった書き手であった(このことも西鶴の章に詳述した)。うまれた時期にくわえ―-西鶴は芭蕉の二歳年長——―、精神的背景においても両者はちかい。たがいに共感する素地はあったのである。にもかかわらず、芭蕉は西鶴にたいし手きびしい。
《先師曰、「世上、俳諧の文章を見るに、或漢文を倭名に和らげ、或は和歌の文章を漢章を入、詞あしく賤くいひなし、或人情をいふとても、今日のさかしきくまゞ迄探りもとめ、西鶴が浅ましく下れる姿あり。我徒の文章は、慥に作意をたて、文字は譬ひ漢章をかるとも、なだらかに言つゞけ、事は鄙俗の上に及ぶとも、懐しくいひとるべし」と也。》
(先師芭蕉がいうには、「世間にでまわっている俳諧の文章をみると、あるものは漢文を和風のいいまわしでかたり、むりやりやわらかな印象に変え、あるものは和歌の文章に唐突に漢文をまじえ、まずいことばをつかいあしざまに表現して、あるいは人情を話題にするとしても、現代人のこざかしい心のうごきをすみずみまで詮索して、西鶴のようなあきれるほど下品な書きぶりが目にはいる。わたしたちの流派の文章は、たしかな思想にもとづき、かりに漢語を借りるばあいでも、文脈になじむようにこれをもちい、卑俗な題材にふれる折にも、すんなりうけいれられるように表現しなさい」ということだ。)
西鶴は、書くにおよばない「卑賎な感情」ばかりをうつしている――芭蕉はそんなふうにライバルをそしる。
人生に挫折し、社会の底辺にうずくまる「負け犬」。西鶴はしばしば、かれらを同情のまなざしでみる。西鶴当人もまた、「死に損じてむざんに生きのびた自覚」をもっていた。(この点についても西鶴の章で縷術した)。致富成功譚をかたるについても、「脇道」や「プランB」に依る例――つまり「当初のもくろみがかなわなかった人間」をこのんでとりあげる。
そういう西鶴が、芭蕉の目にはどう映じたか。若き日のこころざしを捨ててのうのうとしている男。みずからにひきつけていえば、「良勝が愛したおれ」をわすれて平気な恥しらず。のみならず、そうした現状に居なおり、「死なないいいわけ」を喧伝する口説の徒――おそらくそれが、芭蕉にとっての西鶴であった。そういう人間を、芭蕉はゆるすわけにいかなかった。
西鶴にむけられた芭蕉のいきどおりは、たぶんに自己嫌悪の置きかえである(「死にぞこない」に寄りそう西鶴をわたしは愛する。芭蕉の西鶴評は、「偏見」だろう)。俗世にたいする反発心は、青年のころと変わらずたぎっている。いっぽう、多くの門人・後援者を得て、芭蕉は俗世に足場を確保してしまった。
「生きたくないおまえだからこそ、しっかり生きてほしい。」
良勝の矛盾する要請に、芭蕉は一貫して忠実だった。が、いつまでもそこにはらまれるジレンマを解消するすべがみえない――これにたいするいらだちが、西鶴への攻撃のかたちをとってあふれでた。
『野ざらし紀行』と『笈の小文』にあいだに、『鹿島紀行』という著述がある。そこにおいてかれ自身を、芭蕉はこう紹介する
「僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうふりの(世を捨てた僧でもなく、俗世に身をおく庶民でもなく、鳥とネズミのあいだとよばれるコウモリのごとくどっちつかずの男)」。
俗世と絶縁するわけにもいかず、そこに安住することもゆるされず。ひき裂かれた芭蕉のありかたが、ここにも如実にしるされている。
〇投資でもうけた漱石。もし、おなじことを芭蕉がしようとしたら……
元禄七年(1694)九月、芭蕉は故郷・伊賀を発って大坂にはいった。この年の夏いらい、かれの健康はすぐれない。それを押しての来坂は、之堂と酒堂、ふたりの弟子の仲裁のためである。わかく、才ばしった酒堂は、兄弟子をないがしろにする傾きがあった。そのことを之堂がとがめ、両者のあいだがらは険悪になっていた。
大坂に着いてまもなく芭蕉は床につき、病勢はつのるいっぽうであった。下痢が劇しかったというから、大腸ガンだった可能性がたかい。そして、死を四日後にひかえた十月八日、あの有名な「最後の発句」を詠む。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
弟子の支考によると、この発句を芭蕉は「病中吟。辞世ではない」と評した。この言を根拠に、芭蕉はなお生きのびるつもりだったとみるむきもある。じっさい、死病を発したあとも、かれは長崎行きを画策していた。「新興貿易都市」の裕福な商人に、自派の俳諧をひろめる心算であった。
とはいえ、芭蕉はこのときかぞえで五十一、当時の感覚では「高齢者」である。この年齢で重患にたおれ、衰弱をかさねてひと月あまり。死をおもうのが当然だろう。
「この世を辞するまぎわに、発句を口にするとはなんたる妄執……」
「辞世」ではないと支考につげたあと、芭蕉はそうつぶやいたという。
芭蕉にとって死は「宿年の大望」である。凛然と俗世背をむける。「良勝の愛したおれ」は、そのような最期を遂げるはずであった。が、いま逼ろうとしているのは、なしくずし的な肉の解体にすぎない。しかも、弟子たちの諍いという雑事にかかずらうなか、この状況に嵌まってしまった。
俗世に期待をもたぬゆえに、ものごとをよくみとおせる。そういう一面が芭蕉にはあった。「うまくいく手段」がなまじわかるから、よけい、俗世のあれこれと手を切れない。そこから抜けだせずあがくうち、命の期限がつきてしまった。
「おれの人生は、描きかけの絵図のままおわるのか……」
からだは朽ち、遂げられなかった希望だけが彼方へ飛翔する。そんな無念のおもいを、わたしは芭蕉の遺詠にみる。
未完の人生、という点では、漱石も芭蕉と共通する。周知のとおり、かれは死によって、『明暗』をかきあげることがかなわなかった。
ただし漱石は、芭蕉をくるしめたひき裂かれとは無縁である。午前中に『明暗』をかき、午後は漢詩か絵にとりくむ。晩年のかれは、そのような日々をおくっていた。『明暗』の執筆は難航したものの、あだごとに妨げられはしなかったのである。
漱石は、門人との面会を木曜日に限定した。この種のくふうが、他人に疲れる漱石の「護身術」であった。結果、創作第一の暮らしが確保され、ぶれずにわが道をすすむことができた。
漱石のかくものにも、周到さはにじみでている。目にうつるもの、頭にうかぶものを、芭蕉は手あたりしだい叙していく(この点についてはすでにみた)。これにたいし漱石は、作品全体のながれをふまえ、計略をめぐらせつつ筆をはこぶ。
「庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の蜜柑があって、塀のそとから、目標になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものに蜜柑の生っている所は頗る珍しいものだ。あの青い実が段々熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗だろう。今でも最う半分色の変わったのがある。婆さんに聞いて見ると、頗る水気の多い、旨い蜜柑だそうだ。今に熟れたらたんと召し上がれといったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分食えるだろう。まさか三週間内に此所を去る事もなかろう。」
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」坊ちゃんの、一人称による叙述。そのすすみゆきはしかし、すこしも「無鉄砲」ではない。
「東京を出た事のないものに蜜柑が生っているのは頗る珍しい」。この記述により、坊ちゃんが松山ではまだ「異人」であることが印象づけられる。ついで「三週間まって、熟したみかんをたべる期待」に言及。場面を閉じるのは「まさか三週間内に此所を去る事もなかろう」という推察である。
その「まさか」が、この小説のなかでは起こる。十日あまりのち、坊ちゃんは教頭の赤シャツに鉄拳制裁をくわえて辞職。東京に還る仕儀となる。かれが下宿のみかんを口にする日は来なかったのである。
「異境になじめず苦闘する主人公が、こころざしなかばで急遽、帰郷を強いられる。」
みかんをめぐるみぎの一段は、こうした終局を予告する。ものがたりが結末へ踏みだす直前、筋の進行にかかわりなさそうな描写を挟む――語りくちにめりはりをつけるため、しばしばもちいられる技法である。このくだりもその類いとみなせるが、同時に、つぎなる展開への伏線ともなっている。漱石作品において、細部はかくのごとく緊密に全体とむすびつく。
芭蕉がかいたのは俳文、漱石が手がけたのは近代小説である。作品ジャンルのちがいが、芭蕉と漱石の筆致に影響していることもいなめない。だが、芭蕉にちかいやりかたで文をつづる近代小説家もいる。たとえば、スコット・フィツジェラルド。かれの筆は、眼前にうかぶ対象につぎつぎ跳びかかる。
朝日新聞の専属作家となったのち、漱石は収入の一部を投資にまわすようになった。この試みは大成功する。夏目家は、印税や朝日の給与とは比較にならない巨富を、株式によって得た。
目先の変化にとらわれず、一貫した中長期の展望をたもつ――これのできる人間しか、金融の世界では勝ちぬけない。漱石がこの条件をみたしていたことは、作品と言動の双方からうかがえる。
では、芭蕉が投資にいどんでいたら、どうか。得にもならない意地を張ったり、人間関係のしがらみにとらわれたり――わかっていながら、みこみのすくない銘がらに手をだしたのではないか。漱石のようにうまくたちまわれたとはかんがえにくい。