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トランプのアメリカ、ライシテのフランス、福音派とカトリック 第一回『ナチスと絶対悪 − フランス文学研究の立場から』

 『ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本が話題に上がった。著者に異論があるわけではないが、この「ナチスは良いこともした」という言い方自体に言いようのない不快感を抱いてしまう。

 欧米の議論ではナチスの所業が絶対悪であることは前提である。例えば、貧困対策を行いドイツ国民全体を経済的に潤したという一見善政に見えることも、ユダヤ人から簒奪した財産を流用していたのであり、ナチスの善行は悪行に繋がっていると説明できる。とにかく欧米ではユダヤ人大虐殺をしたナチスのしたことは弁解の余地もない悪であるというところから議論は始まり、それに対する異論は許されない。だからナチスやユダヤ人差別を欧米の大学等で学んだ人間は、ナチスは良いこともした、という見解を真っ向から否定し、ナチスは絶対悪であることを啓蒙しようと努めることになる。

 実際、欧米の文化や思想を専門とする研究者には、日本人の読者に対してナチスの絶対的な悪行の説明を自らの使命と考えている人が少なくない。彼らはたとえナチスが良いことをしたのだとしてもそれを上回る悪をナチスはしたのだ、という立場さえも不十分だと考える。とにかくナチスは絶対悪であるというが欧米の常識だ、と彼らは説くのだ。

 ここで、フランス文学を専門としフランス在住経験もある私の考えを言っておくと、私はナチスが良いこともしたとしてもそれに異論を加えるつもりはまったくない。良いことをしていてもしていなくても、ショアという人類史上類を見ない悪行をしたナチスの罪は増すものでも減じるものでもない、というのが私の立場だ。つまり「ナチスは良いこともした」という指摘はなんの意味もないことになる。

 そもそも、残念ながらこのナチスは絶対悪という発想は日本では理解されにくい。その理由としては、まず、日本ではキリスト教などの一神教の文化に馴染みの薄いことが挙げられるだろう。この辺の事情はとても複雑である。一神教の唯一神とは絶対善であり、絶対悪はその対極にあると思われる。神ではない人間が絶対に間違えない、つまり絶対善であることはあり得ないが、唯一神を信仰し自らの行いを絶対善とする人たちは、自分たちと意見を異にする人たちを絶対悪と認定し差別や虐殺を行なってしまう危険性がある、と考える人が日本には多い。明らかに一神教に対する無理解からくる発想である。

 まず、一神教と言えど伝統的な教団は絶対善とか絶対悪を簡単に喧伝するわけではないことを言っておく。確かに、神は絶対善だとしても、人間は神と違って完璧ではないので、何が善で何が悪かについて絶対的な判断を下せないのである。神が求める善を志向しつつも、人間が人間であるうちはそこに辿り着くことはあり得ないと考えるのであり、一神教の信者だからと言って、カルトのような思考をしているわけではない。しかしキリスト教文化圏ではない日本では伝統宗教とカルトの違いはほぼ理解されていないと言って良いだろう。

 また、善悪は立場によって違う相対的なものであるという考えも根強い。例えば、一般に桃太郎は善で鬼は悪だが鬼から見れば桃太郎は身内の虐殺者である、というように、善と悪は相対的で、立場が違えば善悪はひっくり返ることがよくあり、逆転しない正義や絶対善は存在しない、という考えは日本人には馴染みやすいのだろう。自分たちの教祖を絶対善と崇めるカルト集団は敵対する者を、例えばかつてのオウム真理教のように、次々と殺してしまうことになりかねない。伝統宗教の力が弱まった現在の日本の社会で、カルトが勢力を拡大することがあるというのはなんとも不思議な話ではある。

 通称しばき隊という反差別を掲げる左翼の活動家に反対の立場をとる「『しばき隊研究家』岡田晴道」というX(旧Twitter)のアカウントが引用している磨伸映一郎という漫画家の『氷室の天地』という作品のセリフからの引用を見てみよう。

人が最も残虐になるときは「悪に染まった」ときではない!
真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときに人は加虐のブレーキが壊れるのだ!
何せ「自分は正しい」という免罪符を手に入れてしまうのだからな!
正義という名の棍棒(こんぼう)で、悪と見なした者の頭を打ちのめす快楽に溺れてしまうものよ!(https://x.com/okada122400/status/1939430485320716686,  2025年9月27日閲覧)

まず、磨伸氏のこの漫画はしばき隊 vs. 反しばき隊といった政治運動とは一切関係がなく、岡田氏が自分の主張に合わせて磨伸氏のセリフを使用しているだけ、ということを言っておく。しばき隊とは在日韓国・朝鮮人などへの差別的デモを行う団体に対して、反差別を唱え路上で差別団体と直接対峙し、時には罵声を浴びせることも辞さなかった人たちである。彼らに対しては「反差別」という正義を掲げれば何をしても許されるのか?という批判の声を上げる者もおり、岡田氏はそのうちの一人ということになる。ここにおいても、絶対善を想定しまえば、それが過激な悪の温床になりかねないという思考の一端を読み取ることができる。

 誰かを絶対善や絶対悪と見做すことは逆説や差別を助長することになり極めて狂信的で非理性的な考えであるのに対し、人間の行いには良い面と悪い面がありどちらかが全面的に正しかったり悪かったりするというのはあり得ず、どんな善人でも人間は過ちをおかしてしまうものだと考えることは理性的だと見なす人は多い。

 あるいは交通事故における過失割合を考えてみよう。互いに動いている車同士がぶつかった場合、どちらかが100%悪いということにはならない。止まっている車がぶつけられたとしても、その車が駐車禁止・駐停車禁止のエリアに止まっていたり、ハザードランプがついていなかったりする場合は、ぶつけられた側の責任も問われることがある。

 争っている両者のうちどちらかが100%悪いというのはまずあり得ないという立場を常識とする考えによれば、ナチスは絶対悪であるという見解に疑問を持つようになるのも不自然ではない。そのような考えの下、ナチスを絶対悪と見做す人はどこかで間違っており、どんな団体であろうと、良い面と悪い面を冷静に分析し判断することこそが正しい振る舞いなのだと考え、その結果「ナチスは良いこともした」という言葉へと行き着くのだろう。そういう人たちにとっては、ナチスを絶対悪だと啓蒙する学者はなんらかのイデオロギーに染まった冷静な判断のできない可哀想な人たちに見えているものと思われる。当然、研究者はなんとか啓蒙しようと言葉を重ねるが、おそらくこの手の議論は永遠に平行線だ。

 実は「ナチスは良いこともした」という言葉にこだわる人々の多くは、ナチスだの欧米の状況だのには興味がないのではないだろうか? 彼らの関心は旧日本軍にあり、何とか第二次世界大戦当時の大日本帝国を擁護したい人たちが言い出したものと思われる。大抵の場合、戦争や喧嘩でどちらが一方的に悪いというのはあり得ない。だから講和交渉においては様々な条件がつけられることになる。例えば、日露戦争においては日本は勝ったものの賠償金は得られなかった。対して、第二次世界大戦は日本の無条件降伏で終わった。ネットを覗いてみれば、それが気に食わない人というのは一定数存在する。彼らは日本の側にだって正義があったはずなのに、原子爆弾という巨大暴力によって無理やり100%悪いことにされてしまった、と考える。ここで彼らの言う日本の側の正義とは、日本がアジア各国に進出したのはアメリカが日本への石油の輸出を止めたために日本の社会が立ち行かなくなったことが原因で太平洋戦争はアメリカの攻撃に対する防衛戦争であって決して侵略戦争ではない、とか、日本帝国は他のアジア諸国に侵攻したがそれはそれらの国を欧米列強の植民地支配から解放するという善の側面も持っていた、などの主張である。これらの見解に私は決して賛成はしないが、気持ちはわからなくはない。

 この手の話を聞くと、私はフランス文学研究の恩師である田中仁彦先生のことを思い出す。先生は海軍兵学校の出身で戦争が終わるまで天皇陛下のために死ぬことが正義だと思っていたという。しかし敗戦によりその正義は崩れてしまう。戦後、共産主義に走るがそれもソヴィエト連邦崩壊によりまた正義がひっくり返ってしまった。学内では右翼の論客として名高い渡部昇一氏から左翼として敵視されていたという。私たちの世代からすれば、小さい頃から旧日本軍の悪行は教わってきていたし、自分が左翼という自覚はあるもののソ連の共産主義が紛い物だというのはもはや当たり前の事実であった。だが、人生の中で自分が信じている正義が何回もひっくり返るという経験をなされた先生の言葉には重みが感じられた。その先生はよく、植民地支配は日本だけではなく欧米各国も行っていたのであり、敗戦により日本や枢軸国だけが悪いことになってしまうのは不公平だと言う右翼の気持ちもわかると語っておられた。だが、核兵器が登場してしまった状況では、二度と世界大戦は行ってはいけないわけで、それを避けるために日本が悪役を引き受けるのは仕方がないのではないか、と語っておられた。もちろん、この田中先生の意見には賛否両論あるであろう。

 大日本帝国擁護者の人々にとって、ナチスドイツと同盟していたという事実は甚だ都合が悪い。ナチスは絶対悪なので、そのドイツと同盟を組んでいた大日本帝国が悪く言われるのは仕方がないじゃないか、と言われてしまうからである。そういう人たちが「ナチスは良いこともした」という言葉に飛びついてしまうのだろう。世界を善と悪の二つに分けてしまうのはあまりに単純で雑な議論であり、ナチスや差別主義者を攻撃する人の中には絶対悪を設定することによって自らを絶対善に祀りあげてしまうカルト的な姿勢を取るものもいるが、そこは冷静に理性的に考えることが大切である、と彼らは考えるのだ。彼らにとっては、ナチスは絶対悪だと唱える学者先生の方こそが、イデオロギーに侵されたカルト的な思考の持ち主に映るだろう。

 その上で、なぜナチスのユダヤ人虐殺が絶対悪と見なされるようになったのかを解説していこう。ナチスの蛮行はただの虐殺ではないのである。もちろん、良い虐殺と悪い虐殺があるわけではない。ただ、旧日本軍が南京やシンガポールで行った虐殺とナチスの蛮行は質を異にしている。旧日本軍のような虐殺は、フランス軍もアルジェリアで、イギリス軍もインドで行なっている。あるいは中国最初の歴史書である『史記』を読めば、それぞれの国が捕虜を虐殺したという記述が見つかる。対して、ナチスが行なったのは、人を大量に殺すだけではなく、ユダヤ人が存在したという事実そのものを歴史から消去しようという試みであった。そのために、ユダヤ人が存在したという文書や墓などの遺跡全てをこの世から葬り去ろうとしたのである。このような虐殺は人類史上初めてのことであった。

 クロード・ランズマンは自らの映画の『SHOAH ショア』というタイトルに関して、ナチスの蛮行にはホロコーストではなく、ヘブライ語で「絶滅、破滅」あるいは「破局、カタストロフィ」を意味する「Shoah」を使うべきだとしている。ギリシア語起源の「holocaust ホロコースト」はユダヤ教の儀式において生贄を丸焼きにして神に捧げること、あるいは犠牲を意味する。虐殺されたユダヤ人を神へ捧げられた生贄として捉え、この犠牲の先にユダヤ人の未来があるという意味が込められ虐殺を美化していると取ることも可能だ。映画『ショア』のテクストを翻訳して刊行した書籍の解説の中で、高橋武智氏も「『虐殺されたユダヤ人たちが実は神のいけにえだった』ことになり、コノテーション(言外の意味)としては全く不適切な用語といわざるをえない」と書く。

 . フランス19世紀末の詩人ステファヌ・マラルメについて論文を書いている私の立場から言っても、ナチスのユダヤ人大虐殺をホロコーストを呼ぶのはあまり気分の良いものではない。マラルメは『ハムレット』というテクストの中で「すべての時までに拡大された一年のホロコーストの壮麗さよ、さらば」と書いている。マラルメには自然が繰り広げる演劇という発想があり、ここでは『ハムレット』というシェークスピアの演劇作品とその自然の演劇を照らし合わしている。自然の演劇とはフォンテーヌブローの森の木々が秋に紅葉し落ちる様をいう。夏の間、フォンテーヌブローの家で過ごしていたマラルメは秋になると仕事のためにパリに戻る。ヨーロッパは、学校も演劇なども秋にシーズンが始まるのだ。人々がパリに戻り、誰も見ていないところでフォンテーヌブローの森の木々は紅葉と落葉という演劇を行なっていると詩人は書く。実際にマラルメのフォンテーヌブローの別荘を訪れマラルメの部屋に入ってみると、西側に開かれた窓からは、セーヌ川が流れ、その向こうにフォンテーヌブローの森が広がっているのが見える。つまり秋になると夕暮れ時にはこの窓からはセーヌ川の向こうのフォンテーヌブローの森に夕日が落ちていく光景が広がることになる。赤や黄色に染まった木々の葉の上に真っ赤な太陽が降りていく様は、確かに生贄を燃やして天の神に捧げる儀式のようだとマラルメの目には映ったのであろう。この光景の描写は、マラルメの詩学を語る上で重要なテーマとなっている。19世紀末というこの時代、ナチスはまだ歴史の舞台に登場していない。マラルメの詩を愛する者としては、ナチスの蛮行をホロコーストと呼ぶことは何かが汚されているような気がするのだ。

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