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マルクスの思想的連続性─VerwirklichungとEntwirklichung─

 来年の2024年2月に法政大学出版局から刊行予定の共編著(仮題『普遍主義の可能性/不可能性』)に「マルクスにおける普遍と特殊」という章を執筆した。

 様々な視点から普遍主義と特殊主義の関係を考察しようとする論集だが、一般にマルクスと言えば階級闘争ということで、普遍ではなく特殊が強調され、ヒューマニズムのような普遍的価値は否定的に評価されがちだった。実際にマルクス没後のマルクス主義思潮、特にその主流であるマルクス=レーニン主義では、普遍的価値としての人間性を称揚する伝統的ヒューマニズムは「ブルジョア・ヒューマニズム」と否定的に評価され、これに対置する形で労働者階級の特殊利害の重要性を強調する「プロレタリア・ヒューマニズム」が称揚されたりもした。

 しかしこうした普遍に対する特殊の強調は、カール・マルクスその人の原像から乖離していて、マルクスは普遍的価値をこそ強調していたことを論証しようと努めた。

 勿論マルクスは、階級闘争のような特殊で具体的な条件を重視し、階級利害の現実とは無縁な「人間なるもの」を頭上に掲げるような空虚な「ヒューマニズム」は拒否した。しかしそれはマルクスがヒューマニズム一般を否定したからではなく、むしろ逆である。

 マルクスが目指したのは、各人がブルジョアやプロレタリアといった特殊的利害に縛られることがなくなることである。それは階級それ自体が消滅した社会である。そうした共産主義において、各人は自らの望む形での自己実現が可能になる条件が整えられる。つまり普遍的人間的価値が実現できる可能性が開花するのである。

 こうしてマルクスの立場は特殊主義ではなく普遍主義である。ただし階級闘争のような具体的現実を捨象した無媒介な普遍主義ではなく、普遍的解放のための特殊状況を踏まえたリアリティのある普遍主義であることを強調するのが、「マルクスにおける普遍と特殊」という論考の主旨だった。

 こうした主旨からして必然的に、初期著作で強調された普遍的ヒューマニズムが『資本論』をはじめとする後期著作に貫かれているという文献考証が必須となる。そうした論証の必要上で引用したある一文について、「マルクスにおける普遍と特殊」では紙枚の都合上十分御検討できなかった。そこでこのコラムで、改めてその一文をじっくり検討し、その理論的重要性を示したい。それは次の引用文である。

  労働がかくしてこのように生産過程の中で活動的に現れるのは、労働が客体的諸条件の中に自己を実現し、同時に疎遠な実在性として自身から突き放し、それだから自己自身の実体を失った、自己から疎外されて、自身ではなく他者に属する実在性に対立する単なる困窮した労働能力として措定し、それ自身に固有の現実性を対自存在としてではなく、単なる対他存在として、それだからまた単なる他在あるいは自分自身に対して別の存在として措定するからである。この現実化過程は同じように労働の脱現実化過程である(Dieser Verwirklichungprocess ist ebenso der Entwirklichungsprocess der Arbeit)。労働は自己を客体的に措定するが、自己の客体性を自分自身の非存在として、あるいは自己の非存在の──資本の存在として措定する。

  この文章は、1861年から63年にかけて執筆された23冊にもなるノートの中にある一節である。この「23冊ノート」は『資本論』への直接的な準備草稿として、マルクス研究上で重要視されている。

 引用は新しいマルクス=エンゲルスの完全版全集である「新メガ」の、『資本論』各版及び準備草稿を集成した第二部の第三巻からである。この第三巻が23冊ノートの全部で、そのため実に六分冊もある長大なものになっている。引用文はその最後の六分冊目にある。翻訳もされていて、かつて大月書店から全九巻で出されていた『資本論草稿集』の最後の第九巻がこの六分冊目に当たる。

 この『資本論草稿集』は研究者向けでマニアックなものであるが、『資本論』だけでは掴むことができないマルクスの経済学理論の広がりを知ることができ、研究者ならずとも有益なものである。しかし残念ながら今や品切れ重版未定で、入手困難になっている。

 特にこの最後の第九巻は、『経済学批判要綱』を凌駕するレベルでマルクスの哲学的核心である疎外論が縦横無尽に展開されており、同じく『資本論』の草稿である「直接的生産過程の諸結果」と並んでマルクスの哲学を考える際には必読の文献となっている。そして件の引用文も、一読して分かる通り、マルクス哲学の真髄を示すものとなっている。

 何よりも、ここでは一見して明確なように、ヘーゲルの用語と用法をストレートに踏襲して、全く哲学的なマナーで理論を展開している。

 実際にマルクス自身によって公刊された『資本論』の第一巻では、これほど露骨に哲学的な風味のある文章は、意識して避けられている。それはマルクスが実証分析をないがしろにして哲学的思弁に耽る類と自分を同一視されることを必要以上に恐れたためである。なぜ必要以上なのかと言えば、こうした慎重さによって後世の解釈者に、マルクスが哲学を否定したとか、はたまた彼が初期の哲学的著作と自覚的に断絶したとかいった誤解を与える余地を残してしまったからである。

 しかし引用文をただの一読でもすれば、マルクスが哲学的な思考や議論の作法を捨て去ったとか、初期の哲学的著作とは質的に異なる議論をしてるなどとは、よほど先入観や自分が固執する解釈上のパラダイムによって目が曇らされていない限りは、口が裂けても言えないはずである。そうはいっても実際に目が曇っているため、これを読んでなお、旧来通りの謬見に固執しようとする解釈者は少なくないだろうが。しかし研究者ならざる通常の読者は、ここでマルクスは明らかに哲学的なスタイルとマナーで資本主義の本質について議論していると見なすだろうし、実際にしているのである。

 ここでマルクスは、資本主義という生産様式の中で労働者の行う活動である労働がどのように現象するかを議論している。ここでマルクスは、労働を「客体的諸条件の中に自己を実現」する活動だとしている。これはこの草稿の20年近く前に書かれた若き日の『経済学・哲学草稿』と同じである。そしてそうした労働者の自己実現活動としての対象化である労働が、資本主義では「自己自身の実体を失った、自己から疎外されて、自身ではなく他者に属する実在性」に、すなわち資本に転化することによって、そうした実在性である資本に「対立する単なる困窮した労働能力」になってしまうことを告発している。これまた労働の対象化が「同時に疎遠な実在性」になるという『経済学・哲学草稿』そのものの認識である。

 そして極めつけは、こうした資本主義における疎外された労働では、労働の「現実化過程は同じように労働の脱現実化過程である」とされていることである。

 この「現実化過程」の「現実化」はVerwirklichung(フェアヴィルクリフンク)の訳であり、「実現」と訳してもいい通常のドイツ語表現である。問題はEntwirklichung(エントヴィルクリフンク)のほうだ。この言葉は普通のドイツ語表現にはなく、『経済学・哲学草稿』で用いられたマルクスによる造語だと考えられる。定訳はないが、Verwirklichungの反対概念であることが明確になる訳語が望ましい。取りあえず「脱現実化」と訳したが、「現実性剥奪」という訳でもいいだろう。

 単に思考が似通っているだけではない。態々作った造語を、そのまま使っている。これは驚くべきことではないか!

 「疎外」という単語が使われているだけではない。造語までも共通して使われていることは、それだけ『資本論草稿』と『経済学・哲学草稿』のマルクスは思考が連続し、共通の問題意識と設定の上で議論がなされていることを意味する。

 このことは勿論、だからと言ってマルクスが20代の若き日からその思考を進化かつ深化させていないということではない。『経済学・哲学草稿』と『資本論』を比べれば、当然そこには長年の研究成果を反映した思想の発展がある。しかし、こと資本の本質規定に関しては、『資本論』のマルクスは『経済学・哲学草稿』のマルクスと同じである。マルクスはその若き日から一貫して、資本とは疎外された生産手段だとしている。生産手段である限りそれは労働者による生産物である。労働者によって生み出されたにもかかわらず、生みの親である労働者自身を逆に手段として使って無目的に際限なく増殖してゆく怪物的な存在が資本である、一言でいえば、資本とは疎外された労働生産物に他ならないというのが、若き日から一貫したマルクスの基本前提なのである。

労働者は労働という対象化活動によって自己の本質を「客体的に措定する」が、資本主義では、そうした「自己の客体性を自分自身の非存在」として措定する。つまり、対象化したにもかかわらず労働者自身には獲得されず、労働者から疎遠になった労働者自身にとっては非存在に等しい資本として措定するわけだ。

こうしてマルクスは、確かにその若き日の『経済学・哲学草稿』と同じ論理構造によって資本の本質を規定しているのである。実は引用文は既に『経済学批判要綱』で書いたことを再録する形で改めてノートされたものである。それだけここに示されている認識に対するマルクスの強いこだわりが伺える。

 もう四半世紀近く前になる私の博士論文のテーマは、マルクスがその若き日の疎外論を後に放棄したという「疎外論超克説」とも言うべき誤ったマルクス解釈を徹底的に反駁するというものだった。

 今日ではこうした超克説的なマルクス解釈を取るマルクス研究者は少数になり、その支持者の多くは事情をよく知らない非研究者のマルクス解釈者になっている。そうした謬見に囚われている人々は、まさか『経済学・哲学草稿』の造語が『資本論』の草稿集に使われているとは思いもよらないだろう。疎外論超克説は既に完全に反駁されつくした謬説だが、この事実は私自身も改めて驚かされる駄目押しと言える。

追記
2022年4月から2023年8月まで8回にわたって連載した「社会主義入門」は、残りの章を加えて『これからの社会主義入門:環境の世紀における批判的マルクス主義』と題し、あけび書房より2023年12月に刊行されることとなった。全体の構成を示すと次のようになる。

第1章 今なぜ社会主義なのか
第2章 社会主義をどう位置付けるか
第3章 マルクス以前の社会主義思潮
第4章 マルクスの社会主義思想
第5章 レーニンからスターリンへ(以上、コラム掲載分)
第6章 ソ連とは何だったのか
第7章 旧ユーゴスラヴィアの教訓
第8章 中国をどう見るか
第9章 モリスとオルタナティヴ社会主義
第10章 環境の世紀におけるマルクス

これにより、本ホームページでの連載は打ち切りとなる。残りの章も含めて、ご購読をお願いしたい。

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