コラム
プロ講師のコラム The Owl at Dawn
権利の大切さ
前回のコラムでは最近出版した編著の一つとして『原子論の可能性』(法政大学出版局)を紹介し、原子論哲学の魅力の一端を伝えるように努めた。何分専門的な論文集のため、広く一般に知れ渡るということは流石に無理なものの、研究者を中心に地味にではあるが、それなりに受け入れられつつある感触を得ている。
前回も書いたように編著に本格的に取り組みだしたのは10年ほど前だが、実はここ二三年は出版ラッシュと言っていいくらいのハイペースで世に送り出している。2018年は原子論集の他にもう一冊、2017年は実質的な編集責任者になっている学会論集を含めると三冊もの編著を出版している。これは意図してそうしたというよりも、偶然出版時期が重なってしまったことが大きい。
2017年は上記三冊の編著の他に単著も出版し、一年に4冊もの本を出したのだった。これだけ立て続けに本を出し続けていると、流石にかつてのような強い感動を一冊の自著に感じることはできなくなってくるが、それでも2017年に出した編著『権利の哲学入門』には、これまでにない感慨を得ることになった。
編著を作る際、多くの場合は共編著になる。単独編著というのは比較的珍しい。幾つか理由が考えられるが、一つには全章の執筆者を一人の編者だけで調達するのが難しいというのがある。編著の人数が増えればそれだけ人脈も広がり、最適な執筆者を得やすくなる。かつて編著を出す前は、編著の多くが複数の編者によっているのがなぜなのか不思議だったが、自分で出すようになってからはそれはよく分かる。ただ、編者は多ければいいというものでもなく、全体のバランスというのもある。10章の本の編者が5人もいたら、格好の良いものではない。また、編者も多くなれば、意見交換や調整が大変で、場合によっては編者同士で意見が対立して企画自体が流れてしまうということもあり得る。とはいえ、やはり二三人で編集するほうが一人で全てやるよりも有利なのは確かである。
単独編著を出すのが難しいのはこういう作業上の都合以外に、編者のネームバリューというのもある程度関係してくる。本の善し悪しは全て内容によるもので、誰か書いたとか誰が編んだかとかは二義的な要素である。とはいえ、読む側からすれば、目次や序文等から得られる情報に加えて、著者や編者の経歴は参照になる。ましてや既知であれば、全く知らない編著者の本よりも手が出し易いはずである。このような読み手の事情に加えて、編著の場合は書き手の都合もある。執筆する側からすれば、誰が編集している本なのかが、参加するかどうかの決め手の一つになるだろう。面識がない状態で執筆を依頼されたら、編者の経歴は判断の目安になる。大学院生のような若手研究者が編者になって各章執筆者が年長者ばかりの本を作ろうとしても、無理だろう。仮に執筆者が集まったとしても、今度は出版社が渋るだろう。恐らく他の誰かに編者に加わって貰うか、監修者を付けることを条件として提示してくる。ということは、単独編者になるにはそれなりにふさわしい資格のようなものがいるように思われるのである。
実はこれまでも、実質的に私が単独で編集した本はあったのだが、その時は私だけの名前で出すのは僭越な気がして、やはり共編著という形にした。しかし2017年の地点で既に多くに共編著と、それに単著も何冊も出してきたこともあり、いよいよ単独編著を作る秋だと考えたのである。そして、どうせならなるべく多くの執筆者を集めて、バラエティに富んだ本にしたかった。直接のきっかけとして若手研究者に出版を懇願されたこともあり、若手が参加し易いようなテーマで、かつ一書とするにふさわしい、現代社会の重要テーマを取上げることにした。
そこで選んだのが権利である。権利について論じた書は少なくないが、あくまで哲学的な論考を中心にして一書としたものは見当たらなかった。一冊にまとめるに際して、権利の哲学史に当たる思想史的な考察を中心にした前半と、現代社会における権利をめぐる諸問題についての論考をまとめた後半という二部構成にした。そして一部二部とも切りよく10章ずつで、全20章という大部なものとなった。
初めての単独編著でありながら自身も含めて総勢20人の書き手をまとめるというのは無謀な企てではあったが、予想外にスムーズに事が運んだ。執筆者の多くがこの本が初めての共著となる若手だったこともあり、締め切りを遅らせるような無作法をするほど擦れてはいなかった。何度も執筆経験があるベテラン勢も、それぞれが十八番のテーマだったせいもあり、大幅に遅延することなく力作を寄せてくれて、ほぼ予定通りのペースで刊行することができた。その上、出版社の配慮によって、大部の専門書でありながら廉価で出すことができた。
出版後二年余りが経過したが、ほぼ在庫がなくなり、好意的な評価も方々で聞くことができた。このため程なく続編も出すことができ、最初の単独編著事業は成功裏に終わったと思う。
さて、ではこの『権利の哲学入門』の内容であるが、具体的には実際に読んで確認して貰うに如くはないが、出版後暫く時が経った今にして思えば、やはりそれなりに意義のあるユニークな出版活動だったと総括することができる。
先ず第一部「権利の思想史」であるが、これは権利を主題的に取り上げた哲学者を対象にしたというよりも、主要な哲学者の権利概念を改めて問い質したという主旨になる。中心となるのは近代の哲学者で、ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった定番的な名前を並べることができたのは、一つの価値になっていると思う。これらの哲学者が扱った権利概念は主として社会契約論の文脈で扱われるが、これらの各章を続けて読むことで、それぞれの哲学者の権利概念の違いと、先行者の後続者への影響関係なども確かめることができる。ただ注意したいのは、この中でホッブズ論は自然権と絶対専制君主制を強調するという通常のホッブズ解釈に異を唱えるものであり、編者の私としても長年親しんできた定説的なホッブズ観が揺るがされるものがあり、少なからぬ違和感があった。さりとて畑違いのためもあり、私自身に自らの確固としたホッブズ解釈があるわけでもないので、違和感を覚えつつもこれはこれで一つの見識として受け止めることとした。編者はあくまで交通整理係に徹するべきで、自分好みの論考を寄せ集めるのは心得違いではないかと思っている。とはいえ、明らかに自分が納得できない内容で、かつその内容が自分の専門に関係し、自信を持ってその不適切さを指摘できるような場合は、掲載を認めることはない。この点で問題になるのはマルクスの章である。私の本来の専門分野であり、私自身が担当しても良かったのだが、この本を作るに当たっては当初から動物の権利章を担当するつもりでいたのと、一人で二章を書くのは余り格好のいいものではないと思い、誰か他の人に頼む必要があった。幸い長年の知己であり、そのマルクス解釈は私とは異なるところもあるものの、マルクスの理論的核心を規範的な疎外論に見るという核心的な部分で共通点がある松井暁氏に引き受けて貰えることになった。松井氏の立論は図式的に過ぎる嫌いがあるが、図式的であるだけに明快にマルクスの権利論を描けており、学生にも分かり易い章になっていると思う。
第一部の中心をなすホッブズ、ロック、ルソー、カントの章について、上に少し触れたホッブズ以外について一言すれば、カントの章は高度な内容ではあるがやや叙述が難解なのに対して、ロックとルソーの章は明晰でかなり読み易く書かれていて、権利概念を視軸にする形で、ロックとルソーそれぞれの社会理論への良い手引きになっていると思う。学生に読ませたくなる文章である。そしてこの二章以上に分かり易く、また興味深い内容でお勧めできるのがJ.S.ミルの章である。
ミルといえば功利主義の代表者の一人であるが、連載していた倫理学のコラムで解説したように、功利主義というのは元来、権利概念と折り合いが悪い。権利が大事だという場合はある権利が原則的に重要であり、初めから守るべきものとして前提されているのが通常である。行為の前に掲げられている原則なので、行為の結果どうするかという問題は二義的になる。ところが功利主義はまさにこれとは逆に、行為の結果を基準にしてその効用の最大化を目指す倫理原則である。そんな功利主義を掲げるミルが、権利の何を重んじるというのか。
確かにミルは功利主義者として、権利をそれ自体で重んじるのではない。あくまで目的は結果的な効用であり、幸福である。しかし人権が無視されて人命が軽んじられている社会では、人は幸福を追求することができない。基本的な人権が守られ、理不尽な暴力に晒されることのない安全な社会でこそ、人は幸福になれる。権利はあくまで手段ではあるものの、幸福追求という目的にとって必須の手段として、その重要性が強調されるのである。
このようなミルの権利論については当然ながら目的それ自体としての権利を主張する立場からの反論がある。ミル権利論の是非をこの場で詳論することはできないが、原則的に権利の重要性を認めないはずの功利主義にあっても、権利はたとえ手段的な位置であろうともやはり重要な問題として浮かび上がってこざるを得ないという点は、注意する必要があると思う。
このような第一部だが、当然思想史としては不足がある。10章が割かれているとはいえ、権利の思想史をきちんと論じるにはこの何倍もの分量が必要である。それでも、一冊の本の前半部分としては、かなり網羅的に権利の哲学史を講じることができていると思う。権利を視軸とした一つの哲学史の試みとして、この第一部には独自の理論的価値があるのではないかと、編者としては自負している。
第一部に言えることは第二部にも言える。たとえこちらも10章が割り当てられていても、「現代の権利論」のごく一部しか扱えないのは当然のことである。とはいえ、やはりこちらも一部同様、一冊の本の後半部分という制約の中では、かなり網羅的に現代的な諸問題を扱えたのではないかと考えている。
最初の数章では基本的に英語圏で行なわれている政治哲学やメタ倫理学の議論を踏まえた権利論が展開されていて、最新の理論状況を確認することができ、倫理学や政治哲学に関心のある若い読者にはいい刺激になると思う。こうした比較的オーソドックスな議論の後に、おおよそ毛色の異なる「プロレタリアと想像力への権利」という論考が続く。実を言うと、この論考だけは他の章とは別枠というか、別格扱いだったのである。他の章は予めテーマを決めて、その上で執筆者を求めたのだが、この章はそうではなく、長年の友人でもある著者に書いて貰うことを前提として、テーマは権利に関することならば何でも自由に設定していいというようにしたのである。これは勿論、著者が友人だからえこひいきしたというような話ではなくて、著者がどういう文章を書くのか、彼の文体を予め知っていて、自由に書かせることが彼のパフォーマンスを引き出させる必須条件だと考えたからである。結果としてはまさに正解で、他では読めないユニークな論考に仕上がった。読まれてみれば分かると思うが、彼の書き振りは彼の後輩で今現在ブレイクしているある政治学者とよく似ている。誰とは言わないが、これはその若手学者が、著者から強く影響されたからである。勿論それはその政治学者が著者を剽窃したとかパクっているという話ではない。そうではなく、その政治学者の書くものは間違いなく独創的な才能の発露であるが、しかしその若き才能と著者の間には学問的な継承関係があるということである。ともあれ、このユニークな章を収めることができたことが本書の独自の価値を高める一助になったことは間違いなく、編者としては喜びに堪えない。
二部の他の論文では、「市民の権利」や「患者の権利」といった章が読み易い。また、「将来世代の権利」は暫く前に亡くなった現代を代表する哲学者の一人であるデレク・パーフィットの理論が紹介されていて、現代哲学の議論の一端を垣間見ることができる。これまでの哲学や倫理学では世代間をまたぐ理論問題は重視されて来なかったが、地球環境の持続可能性が中心問題となっている現代社会では、世代間倫理はむしろ前提的な問題設定となっている。しかし当然未来は不確かであり、仮定が現実化する保障はない。未来の問題について理論化するのは現在の問題を論ずることに比べて原理的な困難さがあるが、しかし困難な難問だからと放置することは許されず、可能な範囲で理論化する必要に迫られている。それが現代という時代だと言えようか。
同じように、これまでの倫理学で中心的に問われなかったのが、人間以外の存在者である。それは連載コラムでも論じたように、倫理学が終始一貫人間の問題のみを扱ってきたからだった。当然権利も専ら人権の問題として問われ続けてきたし、主要な倫理学や法哲学の議論では今もなお、権利といえば専ら人権に縮減されている。しかし現代倫理学では功利原則を人間以外の動物にまで拡張することを求めているピーター・シンガーに代表されるように、倫理原則を予め人間にのみ限定しておく思考様式は厳しい批判に晒されている。当然権利も人間だけのものではないという主張がありうるし、実際にある。
動物の権利については既に連載コラムの中でその概要を説明してあるが、本書に収めた拙稿「動物の権利」では、コラムで触れた論点を厳密に理論化して展開している。世界的には動物の権利は主要な倫理問題の一つとして盛んに研究されているが、日本では残念ながら動物の権利は、未だに色物的に揶揄する批判的紹介ばかりで、きちんと理論的に論じた研究はごく僅かしかない。その意味で、あくまで日本語による文献という範囲では拙稿は、それなりに意義のあるものになっているのではないかと自負する。多くの人に読んで貰えれば幸いである。また、この「動物の権利」論文の続編にあたる「動物と徳」と題する拙稿を収めた編著『徳と政治』http://www.koyoshobo.co.jp/book/b454048.htmlも、最近出版された。併せ読むことによって、動物倫理問題の広がりを感じていただけるのではないかと思う。またこの『徳と政治』は、近年興隆著しい徳倫理学を現代政治哲学とコラボさせた論集で、徳倫理学を主題とした本格的な論文集としては本邦初となるものでもある。
以上ごく簡単ではあるが、拙編著『権利の哲学入門』を紹介させていただいた。現代社会において重要な様々な権利問題を考えるに当たって、そもそも権利とは何なのかという哲学的次元にまで遡ってみることによって、権利の大切さが改めて感じることができるのではないか、そのような思いを込めて編んだのがこの一冊である。多くの人々に読まれることを願ってやまない。