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楽しく学ぶ倫理学 第19回  種差別主義批判から動物の権利へ

奴隷制を絶対に許さないという現代社会の常識は、人間にとっての権利の絶対的必要性という、はっきりした倫理学的提言に帰結することを見た。このような権利を重視する方向に親和的な規範倫理学上の立場は言うまでもなく義務論であり、義務論が適切な規範理理学上の立場のようにも思われるが、何らかの形で権利の重要性を含意できるのならば、功利主義でも別に構わないのではないかと思う。ここで問題なのは、権利それ自体は根源的であり、それ以上遡れない目的的なものであるが、人間が権利的存在であることの理由は、きちんと遡ることができるし、むしろ遡るべきだということである。というのは、権利それ自体が重要であることとは異なり、人間が権利的存在であることの理由を問いたださずに自明視することは、大きな不都合を生み出すからである。それはどうしてか。

人間に権利があるのはなぜかという問いは、権利が重要なのはなぜかという問い同様に愚問として、省みられないのが普通である。敢えて言うとすれば、それは人間だからということになる。つまり人間に権利があるのは人間だからということである。それほどまでに自明だということだ。しかしこの答えは同義反復であり、何も説明していない。この同義反復が拙いのは、これが人種差別と同じ論理構造をしているからである。

人種差別が何故駄目かといえば、合理性がないからである。典型的なのは白人による黒人の差別であるが、どうして黒人が差別されるかといえば、肌の色が濃いからである。しかし肌の色の濃淡は皮膚内のメラニン色素濃度の違いでしかなく、それを基準に人間の価値を序列化できる何の理論的根拠にもなりえない。つまり人種差別というのは、白人をただ白人であるという理由だけで非白人よりも優遇するとする、非合理な理論と実践である。人種差別は許されない。ならば、人間が人間であるというだけで権利的存在であるというのも、一つの差別なのではないか。

そうなのである。それは人種差別同様の差別、人間という種を理由なく優遇する「種差別」である。そしてこの種差別が、これまでの人類文明の基調になっていた。動物は人間ではないという理由だけで、当然のように権利など与えられず、道具として人間に都合のいいように使われ続けてきたからである。そして人間の動物利用が文明生活の基盤になっていた。その意味では、人種差別が意識されることがあっても、種差別が意識され、人種差別同様にその撤廃が広く提起されることなど、つい最近まであり得なかったのである。

それは我々の社会が、余りにも当たり前に動物利用を前提していたからである。実際、クルマが発明され普及する以前に馬にも権利があるとして、馬の使用を全面的に禁じようとしても、それを受け入れられる社会的基盤はなかった。しかし時代は変った。馬はクルマに、牛はトラクターになったのである。こういう現代だからこそ、種差別という議論が現実味を帯びて主張されるようになった。それにしても種差別とはどういうことだろうか。そして種差別が問題ならば、どうすればいいというのか。

種差別というのは、人間以外の存在を人間ではないというだけで差別する、人種差別と同じ論理構造の理論と実践である。そのため、人種差別がいけないのならば、種差別もいけないというのが、論理的に一貫する帰結である。そして種差別がいけないのならば、人間は動物を無権利な存在として、道具として利用してはいけないというのが、理論的に整合的な実践となる。

ということは、人間が相変らず動物を差別し続けたいのならば、種差別は実は差別ではないこと、合理的な種区別であるという理由を提示しなければいけない。これはつまり、人間を動物とはっきりと区切ることのできる、明確な境界線を提示するということである。

しかしこれは先に述べたように、今や不可能と考えざるを得なくなっている。かつての常識だった人間中心主義を支持する科学的根拠などあり得ないというのが、現代の動物関連科学が示唆するところだからである。

かつて自明であった人間と動物を区分する基準、人間は社会的存在である、言語的存在である、いや道具を使う存在であるという諸点が、多くの動物、特に人間に近い霊長類にはっきりと見出せるということが分かったからである。

確かに動物の言語には人間の言語のような複雑な文法はないだろう。しかし複雑な言語活動ができることが権利の境界線だとすると、人間の中の多くの部分が無権利になる。誰しも幼児の時分は複雑な言葉など操れないし、老いて痴呆状態ともなればかつてできた話もできなくなる。また精神遅滞によって生涯複雑な会話ができないような人もいるだろう。だからといってこれらの人々に権利がないとは言えない。だがこれらの人々に権利を与えることは、高度な精神活動ができない存在にも権利があるということを意味する。これらの人々を救うための基準を設定すると、どうしてもある種の動物も含まれてしまう。人間が権利的存在であることを種差別的な同義反復ではなくて合理的に説明しようとすると、どうやっても権利を人間固有のものに留めておくことはできない。人間の権利を確証する根拠は、必然的に動物にも権利を与えてしまうのである(詳しくは拙稿「動物の権利」、田上孝一編『権利の哲学入門』社会評論社、2017年所収、参照)。

動物にも権利があるといっても、権利はその存在にふさわしいように自身を十全に実現するためのものなので、その存在の複雑さによって求められる権利は異なってくる。人間は複雑な存在であるから、保障されるべき権利は多岐にわたる。対して人間ほどには複雑ではない動物には、不要の権利もある。選挙権は人間には必要だが、動物には無用である。教育を受ける権利も、動物にはいらない。動物に必要なのは、もっとずっと基本的な権利である。

動物に必要な権利は、人間だったら当たり前すぎて言うまでもないような条件である。それは一言で、ただ生きることができるという意味での生存権である。そしてその生存権が理不尽な制約を受けないことである。深刻な理由なく殺されない。生きている間には苦痛を与えられないことが基本である。暴力による虐待は勿論、身体を拘束されたり狭い場所に監禁されない、飢えさせられない、無理に芸を仕込んだりするような、嫌がることをさせられないというような、基本的な自由が与えられるべきである。こういう自由が制限されるのは人間社会では、かつての奴隷か、刑事罰を受けた受刑者である。しかし動物は何の罪も犯してないのに犯罪者のように拘束され、奴隷のように使役される。そして犯罪者や奴隷にも行わないような残酷な仕打ちがなされる。すなわち、食べるために監禁して殺されるのである。他に食べるものがある豊かな現代世界で、食べるためというのは動物を殺してよい深刻な理由ではない。人間は肉を食べなくても、肉以外のもので必要な栄養を摂取すれば健康でい続けられる。肉にしか含まれていない必須栄養素などないのである(肉食の問題について、詳しくは拙著『環境と動物の倫理』本の泉社、2017年、参照。また次回で少し説明する)。

こうした動物への虐待が、ただ動物だという種差別によって正当化されてきたし、今もされている。しかし差別はよくなく、残虐行為も許せないというのならば、動物に対する扱いも人間に対して同様の優しさに満ちたものに変える必要がある。

もし動物が苦痛を感じないのならば、問題はない。これまでどおりに動物を扱ってもよい。苦痛を感じないのならば残虐行為という意味はないからだ。確かに動物の中には苦痛を感じていないものもあろう。昆虫が苦痛を感じているとは考え難い。しかしここで問題なのは、人間が大規模に利用して、苦痛を与え続けている動物はどういう動物なのかということである。言うまでもなく食用や実験用に使っている動物であり、その主流は牛豚のような哺乳類であり、少なくとも鶏のような脊椎動物である。これらの動物が苦痛を感じているというのは、現代の動物科学の標準的見解である。

また、苦痛を感じるような動物は、はっきりとした自己意識を持ち、危害を加えられることを恐怖し、危害の果てにある自らの死を避けようとする。無抵抗に殺されることはないのである。これらの動物を監禁し、自由を奪うことは、これらの動物の生を根源的に損なうことだと考えざるを得ない。

ということは、種差別を避けたうえで権利の付与条件を考えるならば、専らその存在の精神機能に応じて、その存在に相応しい権利が与えられるべきだということになる。人間に人権が必要なのは人間が人間だからではなく、人間が精神的な存在だからである。そのため、人間に権利があるのと同じ理由で、精神的な存在である限り、人間以外の存在にも権利が与えられるべきということになる。動物は人間ほど高度な精神活動は行なえず、被選挙権や高等教育を受ける権利は必要ないが、人間がそうであるように苦痛を感じ、伸び伸びと生活できる自由を希求する。それなのに人間にのみそのような権利が与えられて、動物には奪われているのは人種差別と同じ種差別である。しかし差別は許されない。だとしたら人間は動物の権利を奪うべきではない。人権を尊ぶのならば、論理的必然性として同時に動物の権利も尊重しないといけないのである。

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