コラム
プロ講師のコラム The Owl at Dawn
楽しく学ぶ倫理学 第3回 倫理学と哲学の関係
倫理学の中心問題は善であるが、善が客観的な事実なのかそれとも主観的な感覚や取り決めのようなものなのかどうかは、きっぱりと答えが出るような問題ではないことを説明した。この場合、「前提的な立場」というものに、大きく左右されるのではないかと示唆した。実はこの前提的立場というのは、哲学上の立場である。哲学的な立場が、倫理学の問題を考える際の前提となる。これはつまり、倫理学の前提には哲学があるということだ。では、哲学と倫理学はどういう関係にあるのか?
この場合、哲学が通常、広義と狭義に定義されていることに注意する必要がある。ここで倫理学の前提となるといっているのは、狭い意味の哲学だ。
例えば宗教を信じている人は普通、神や霊魂といったものが実在すると考えている。そしてこうした神や霊魂というのは概ね、物理的な物体とは考えられていない。物質とは原理を異にする、精神的な原理に属する存在だと考えるわけだ。つまりこの世界は全てが物質的な、物理的なもののみによってなるとは考えないのだ。無論、普通に考えて、この世界には物理的ではない存在は沢山ある。愛とか友情は確かに存在するが、愛や友情が物体だと思う人はいないだろう。しかしここで問題にしているのはこういうことではない。それ自体は確かに物体ではない愛や友情のようなものが、物体を離れて、物体とは独立に存在するかどうかという問題である。
愛や友情というのは人間の間でのものであり、人間が思い描く感情である。そして人間の意識は脳の働きであり、脳は身体の一部だ。身体の一部として、脳は物理的な存在であり、一つの物体である。そうすると、愛や友情というものが、脳とかかわりなく現実に作用するのかという話になる。同じように、神や霊魂というのも、脳が作り出した幻想であって、それ自体としては、人間の脳という物体とは別に実在しているわけではないのではないかという問いになる。
つまり、我々の世界には、物体的なものと、物体的ではない精神的なものとの二つの原理があり、どちらが根源的なものなのかという問いが自ずと生じてくるということだ。存在するのは全て物体的なものであり、神や霊魂のような精神的な存在とされているものは人間の物体的な身体、特に脳が作り出したイメージに過ぎないと考えるとすると、このような考えは、唯物論的な考えということになる。これに対して、物理的な存在とは別次元の存在が実在すると考える。神は存在するのであって、神は霊的な存在だから、物体とは異なる精神的な原理があるのだと考えるとなると、こうした考えは唯物論とは反対の、観念論ということになる。
ここで唯物論というのは、俗に誤解されているような、物質主義とは異なる。精神的な価値を軽蔑し、現世利益をひたすら追求する拝金主義的な偏狭な考え方のようにいわれることがあるが、このような通俗的な用法とは関係がない。あくまで物事の基本的な存在のありかたの問題で、価値判断は含まれていない。世界を物質的な原理と精神的な原理に二分して見た際に、物質的な原理のほうを根源的だと考える世界観である。同じように、観念論といっても、卑俗な物質的世界を超えた、崇高な精神的世界を尊ぶ理想主義だという考えを直ちに意味するわけではない。確かに観念論を唱えた人々、例えばその最大の巨匠であるプラトンにはこうした考えが見られたが、このような理想追求というのは、派生的な意味である。観念論の定義それ自体にはやはり精神的な理想追求のような価値判断は含まれず、あくまで物質的な原理に対してそれとは次元の異なる精神的な原理のほうが根源的であるという、存在の捉え方の問題である。
このような世界観、我々の世界は専ら物理的な世界なのか、それとも物理現象を超えた精神的な世界があるのか、唯物論が正しいのか、そうではなくて観念論が正しいのかということは、物事の存在そのものにかかわる問いであり、存在論的な問いということになる。このような存在論というのが、狭義の哲学の基本的な探求対象ということになる。そして勿論、存在論の問いは唯物論と観念論のどちらが正しいのかという問いに解消され尽くされるものではない。どちらかが正しいにせよ、どちらの立場に立つにせよ、その上でより具体的な多くの問いが提起される。
例えば物事は絶えず移り変わり、変化していくものである。では変化とは何なのか。変化の前提は運動だろう。では運動とは何なのか。運動には原因があり、原因は何かに結果する。では因果とは何なのか。物理学は運動の具体的なあり方を説明するが、運動そのものがそもそも何なのかは解明しない。常に移り変わる世界の根底に、実は不動不変の根拠があるかもしれない。こういう問いに自然科学は答えを出してくれない。しかしこういう問いこそが、実に存在論的な問いなのである。存在のあり方がそもそも何であるのかを問うのだ。当然問いは多岐にわたり、議論は尽きることがない。これが哲学の世界である。
存在への問いは、別方向からも問うことができる。あるものがどう存在しているかは、それを知らない限り分からない。知られた存在は知識である。であるならば、存在とは何かという問いはむしろ、知識としてある存在と、存在の知識を得るあり方、つまり認識の問題として捉え返されるのではないか。つまり存在とは何かという問いは、存在論の問いである前に、認識論の問いではないかということである。認識論とは人間の知識の起源を問い、どのようにすれば人間が真なる知識に到達できるかを問う学問である。当然今日では、認知心理学や脳科学の最新の知見を踏まえて展開されるべき領域である。
近代以降の哲学では存在論よりもむしろ認識論が優位になったが、現代になって改めて存在論が盛んに研究されている。ここでは存在論と認識論がどのような関係にあり、またどうあるべきかは細かく難しい議論になるので展開しないが、いずれにせよこうした存在論と認識論が狭義の哲学の中心となるということのみを押さえてもらえればよい。
このような狭義の哲学に対して、広義の哲学には倫理学も含まれる。では存在論や認識論といった狭義の哲学に対して、倫理学はどういう位置にあるのか。それは存在論も認識論も事実を問題にするのに対して、倫理学は価値を、特に「べき」という当為を問題にするということである。事実と価値という領域の違いがあるわけだ。この領域の違いを完全な次元の違いとまで言っていいかどうかは、それ自体哲学的な立場による。原理的に峻別され、「~である」という事実から「~べき」という規範への通路は全く開いていないと考えることもできるし、反対に「べき」は全て「である」に吸収され、ある事実からは唯一正しい「べき」が導かれると考えることもできる。これまた、誰もが納得できるような正解がない問題であり、各人がそれぞれ自分自身の考えを持つ必要がある問いである。
ただ、大切なことは、それがどういう関係にあるにせよ、事実と価値とは別なのだという反省をすることである。というのも、普通は倫理学を学ぶことのない多くの人は、事実判断と価値判断を混同して、事実判断とは別に行なって正当化を行なうべき価値判断を、全く異論の余地のない事実判断のように思いがちだからだ。例えば政治的な立場は明らかに価値判断の領域なのに、自分が正しいと思っている立場を全く自明の事実のように考えてしまったら、異なる政治的立場の人々とは対話できなくなる。対話を封殺する態度は時として抑圧や暴力につながる。これは市民生活においては好ましくない人間関係のあり方である。ここに倫理学を学ぶ大きな意義の一つがある。
こうして哲学は狭義には倫理学とは別のものであり、事実の問題を存在論や認識論の領域で扱う。この意味では哲学は倫理学の前提である。事実と価値とがどういう関係にあるにせよ、立脚する立場が唯物論か観念論かで価値に対するアプローチが根本的に異なってしまうように、事実とは無関係に価値それ自体を議論することはできないからだ。
そして哲学は、広義には倫理学が含まれ、倫理学は哲学という全体の部分である。どちらにせよ、倫理学は単独で成り立つ学問ではなく、常に存在論や認識論とのかかわりの中で成り立つ学問である。
こうして倫理学は哲学と深く関連しつつ善を探求する学問であるが、探求目標である善というのはどういうものなのだろうか、それはよいことであるといっても答えにならない。ではどのように問えばいいのだろうか?
例えば光とは何かという問いを考えてみる。光とは可視光線であり、一定の帯域の電磁波である。水がH2Oであるように、これが光に対する自然科学的な説明である。では善もこのように説明できたらどうなのか。先ず前提として、神や霊魂といったものは存在しないという唯物論的立場をとる。その上で、善とは人間が行なう価値判断であると規定する。この際、我々が何かしら善いと思い、その善さに基づいて選択行動を行なう際に、脳が一定のパターンで電気的に興奮していたり、ホルモンのような何か特定の分泌物を出していたりしていることが判明したとする。そしてこの脳科学の成果に基づいて人工知能を作り、人間と同じように善悪の価値判断を行なうロボットが創られたとする。そうしたら、善とは何かは光が電磁波であり水がH2Oであるのと同じ次元で説明できたといえるだろう。今現在、このようなロボットが作られる見込みは薄いが、こういうアプローチが無意味だとは言えないだろう。
これに対しては、ここで問うてるのはそういう自然科学的な説明ではなく、光を見たら明るく感じるその経験であり、赤を見たらそれを赤く思い、赤い以外には思わない体験とは何かだと問い返すことができるだろう。このような問いに対して、赤は一定の電磁波の帯域だといっても、説明にはならない。善も同じで、善に関する何かを説明することはできても、善それ自体は赤や黄色を見る体験同様にただ直観できるだけで、説明することはできないという反論が可能である。つまり善は定義不可能なのである。こう主張したのが『倫理学原理』(1903年)のG.E.ムーアであった。
このような問題にはどうアプローチしたらいいであろうか?勿論、善そのものもH2Oのようの説明される日が来るのだと期待するのは自由だし、ムーアのように定義不可能だと見ることもできる。
そこで私としては、善そのものとは何かというのは有意義な問いではあるが、それに拘泥して議論を留まらせるのではなく、それがどのようなものであるにせよ、それが現実に適応されている、具体的な現実に取り組むことが大切なのではないかと提起したい。善いものが体現している善そのものとは何かが明確にならなくても、その善いものをそれ自体個別的に考察することに意義があるのではないかということだ。
この意味で、「応用倫理学」といわれている分野が持つ重要性が浮き彫りになる。応用倫理学というのは、生命倫理学や環境倫理学のように、倫理学的考察を具体的な医療問題や環境問題に適用したものだが、実のところ倫理学自体が一つの応用的な学問といえるかもしれない。
応用倫理学に対して、普通の倫理学のことを「規範倫理学」という。これは人間がなすべき規範一般を探求するからであるが、為すべき善が善一般としてあるのではなく、具体的な何かについての善としてあるとするならば、抽象的な公理のようなものとして規範の体系を構築するというのは、不適切な方法ということになる。
我々は人間ではあるが、一切の属性を持たない、人間一般というものは存在しない。男や女、大人や子ども、日本人やアメリカ人、学生や社会人、現在に生きているのであって1000年前に生きているのではない等といったように、様々な属性や社会的役割、それに特定の時代状況に生きている者として、我々は存在している。これらの要素を一切捨象して、抽象的な人間一般の原理として規範を考えることはできないのではないかということだ。あるいは、仮にそのような抽象的な体系を築くことが可能だとしても、具体的な様々な場面での規範のあり方の検証を通して、最終的に抽出されるようなものでないといけない。人間はこう振舞うべきだというような、出来合いの体系を頭の中で予めこしらえるというような方法は、倫理学の方法としては不適切ではないかということである。
特に大切なことは、人間が徹頭徹尾社会的な存在だという事実である。我々は常に特定の時代に、一定の経済システムと法律体系の中に生きている。我々が生きるためには食事を基本とした消費活動が必須であり、自給自足をしている一部の人を除けば、消費財は金銭を介して入手する。経済がなければ消費活動ができず、消費ができなければ生きることはできない。我々は常に一定の経済システムの中に包摂され、システムの要請どおりに活動する他ない。同じように、我々は常に一定の取り決めに従って生きている。欲しいからといって人のものを勝手に盗んではならない。盗みは罪として罰せられる。罰は刑法によって根拠付けられるが、刑法以外にも多くの法律があり、法に従うことで我々の社会生活は成り立っている。
倫理学は人間がどう生きるべきかを問う。その人間は経済や法律に従って生きている社会的存在である。従って倫理学は人間のあるべきあり方、個人としてどう振舞うことが人間にふさわしいかを問うだけではなく、人間にとってどのような経済の仕組みや法律のあり方が望ましいかということも探求する。規範倫理学といっても、そこには既に理想的な経済や法律のあり方、つまり望ましい社会のあり方というような具体的な問題が含まれるのである。
この上に、医療や環境、さらには科学技術やスポーツというような、人間生活の様々な局面にかかわって、具体的な個別例を取上げつつ考察してゆく応用倫理学が重なる。総じて言えば、人間にかかわる全ての問題が倫理的な問題になりうるといっても過言ではない。
従ってどのような浩瀚な書物でも、倫理学の全問題をくまなく網羅するというのは不可能である。ましてやこのコラムでは、ごく一部の領域と問題について触れることしかできない。
この連載では、望ましい社会のあり方を模索すると同時に、応用倫理学の幾つかの問題を取上げて、具体的な諸問題をどう考察するのかという一つのモデルを提示する。これを参考にして、読者各自が自分独自の倫理的考察ができるように促すというのが、本コラムの主要な目的である。