コラム
プロ講師のコラム The Owl at Dawn
娯楽と中国文化―白話小説のキャラクターたち―第10回 戦うヒロイン―十三妹(シーサンメイ)『児女英雄伝』
十三妹と武器
拙稿の第1回目でご紹介しましたように、戦うヒロインである十三妹は徒手で戦う拳法も得意ですが、武器を使った戦いも得意です。十三妹自身も、武芸十八般の武器ならば、どれも使え、その中の刀、槍、弾弓、袖箭は父親から教えてもらったと言っています(第八回)。
ストリートの展開の上でも、またストーリーを盛り上げるためにも、戦うヒロインにとって、使う武器は重要な要素であると思います。今回は十三妹が使う武器について見てみたいと思います。
弾弓
現在の中国語で“弹弓(dàngōngダンゴン)”と言えば、Yの字の形をした「ぱちんこ」、「スリングショット」を指しますが、それとは違い、清代の、つまりは十三妹が使っていた弾弓は、弓と同じ形をして、乾かした粘土や金属の球を発射する武器です[1]。前回ご紹介しました『松本児女』ではボウガンの形をしたものとして描かれています[2]。ちなみに、ボウガンは中国語では“弓(gōngゴン)”ではなく、“弩(nǔ)ヌ―”です。
弾弓は第五回から第六回で最初に出てきます。十三妹は能仁寺で安公子を殺そうとしていた悪徳和尚とその手下をこの弾弓で射殺しました。十三妹に助けてもらったといえ、すんでのところで殺されるところであった安公子は、顔中を涙まみれで、可哀想に、おそらくは腰を抜かしたのでしょう、立ち上がれなくなってしまいました。十三妹は、そんな彼に手を差し出して助け起こそうとしたのですが、伝統的な考えが彼女の頭をよぎり、女性である十三妹は男性である安公子に直接触れることにためらいを覚え、そこで彼女はこの弾弓に安公子を捉まらせ、立ち上がらせます。
能仁寺から脱出し、十三妹は安公子と張老人一行と別れることになります。しかし、十三妹は安公子が途中で盗賊が住む土地を通ることを知っていて、彼らの身を案じ、この弾弓があれば、盗賊たちは危害を加えないばかりか、を安公子の護衛になってくれると言い、安公子に弾弓を貸し与えます。
十三妹が安公子たちと別れ、出発しようとしたとき、安公子は能仁寺に自分の硯を忘れてきたことを思い出します。ただの硯ならば、まだしも、その硯は、安公子の祖父の代から伝えられた大切な硯の上、その硯には安公子の父である安老爺の号が刻まれており、そのような物が、死体がゴロゴロ転がっている能仁寺で発見されれば、面倒ごとが起こることは必至です。しかし、かと言って、安公子たちが能仁寺に戻るというのも、やはり面倒ごとが起こることになるでしょう。そこで、十三妹が一人、密かに能仁寺に戻り、硯を回収し、後日、弾弓と硯を交換することになりました。(第十回)。
その後、安公子は十三妹から借り受けた弾弓を携え、旅を続けますが、十三妹が予想したように、途中で盗賊団に出会い、行く手を阻まれます。しかし、安公子は十三妹に言われたように、弾弓を盗賊に渡します。そうすると、それまで、安公子を“你”(nǐニー「あなた」もしくはこの場合は「おまえ」という意味)と呼んでいた盗賊は、急に“尊客”(zūnkèズンカ「あなた様、お客様」という意味)と呼び方を改め、
“尊客是从青云峰十三妹那里来了么?” 「あなた様は、青雲峰の十三妹のところからおいでになられたのですか?」[3]
と丁寧な口調で話し始めます。そして、その盗賊たちは二人の手下を安公子たちの世話や護衛にと付けます(第十一回)。十三妹の言う通り、彼女の弾弓は強盗たちには効果てきめんであったわけです。つまり、強盗たちにとって、十三妹の弾弓は十三妹の分身であると言えるでしょう。さらに言えばこの弾弓ですが、祖父の代から伝わっている、いわば家宝であり、十三妹はこの弾弓を十二歳の時から使い始め、肌身離さず持っていたものです。(第九回)
ついでにというのも、何ではありますが、十三妹の弾弓と交換することになった硯についても見てみましょう。古来より、中国では、硯の他に、紙、墨、筆を合わせて、“文房四宝(wénfāngsìbǎoウェンファンスバオ)”と称して、“文房”「書斎」に常備しておくべき、四品としていました。安公子は、この後、勉強して科挙に合格して、さらに出世を続け、位人臣を極めることになるのです(第四十回)。安公子と“文房四宝”は、切っても切れない仲であり、安公子の人生そのものとも言えると思います。
図らずもとは言え、二人は結局お互いを象徴するもの、あるいはお互いの分身と言えるものを交換し合ったことになると言えます。弾弓と硯を交換した第十回の題名が“晚新词匆忙失宝砚 防暴客谆切付雕弓”「新詞に見ほれ、宝硯を忘れ、道中の護衛に雕弓を貸す」であり、そして、弾弓と硯を取り換えるために、再会し、最後には二人が結婚する第二十八回の題名は“画堂花烛顷刻生春 宝砚雕弓完成大礼”「華燭の典礼にぎにぎしく 宝硯と雕弓は大礼を完成する」となります。十三妹は弾弓で安公子の命を救い、それを安公子の硯と交換することになり、そのことが二人の結婚の伏線となっているのです。弾弓はこの点でもこの物語を展開する上でも大切な武器であると言えます。
袖箭
ある日、安家の料理人が怪我したというので、十三妹は彼女の私物を入れている箱から薬を取り出し、使用人に与えました。そして、その時、安公子は、その彼女の箱の黒皮の筒を見つけ、それは何かと聞くと、十三妹は“袖箭(xiùjiànシユウジエン)”であると答えました。袖箭とは名前からも分かるように、袖に隠して箭(矢)を発射する武器です。この袖箭ですが、中国語では“暗器(ànqìアンチ)”に分類されます。“暗器とは、日本語では「暗殺用武器」、「飛び道具」、「隠し武器」と訳されています。手裏剣、吹き矢などがこれに含まれます。「隠し武器」という割には、上で紹介した弾弓も含まれ、また「飛び道具」としては、一般的な弓や銃は含まれないようです[4]。一般的な刀、槍、弓以外の武器を指すようです。
“暗器”は清代に流行し、清皇帝の王子から商工業者など、各階層の人々がこれの練習に励んだようです[5]。では、“袖箭”とはどのような武器なのか、十三妹の説明を見てみましょう。
五本の矢を装填することができ、引き金を引くと、袖箭の中心にある筒から矢は発射され、中心の筒の周りには矢を装填する四つの筒があり、中心の筒から矢が発射されと、周りの四つの筒に装填されている矢が中心の筒に一本ずつ落ち、五本の矢を連射できるの、それで「連珠箭」と言います。この矢は七八十歩までとどきます。(第三十一回)
十三妹の説明にはありませんが、バネの力を利用して矢を飛ばすそうです[6]。清代の一歩は1.6mですので、八十歩とすると、128mとなります。ずいぶん遠くに矢を飛ばすことができるようです。しかも、十三妹は矢じりに毒を塗っているのです。非常に恐ろしい殺傷能力を持った武器であると思います。しかし、
刀と弓と一緒に子供時分父から習ったの、刀や弓は使ったことがあるけど、この袖箭は、相手に不意打ちをくらわすものだから、使ったことがないの、今となっては無用の長物ね。(第三十一回)
と、十三妹はこの武器を実戦では使ったことがないそうです。ただ、後に改めて書きますが、このセリフを言った直後、十三妹はこの武器を初めて使うことになります。
安公子を救ったとき、彼女は、最初の二人は弾弓で倒しましたが、その後は、拳法と刀で
戦いました。袖箭は彼女の戦闘スタイルとの相性が悪かったのでしょうか。
日本刀
前回紹介しました、『児女英雄伝』の加工作品でも、十三妹の武器として取り上げられた日本刀について見てみましょう。『児女英雄伝』の中では“雁翎倭刀,“倭刀”,“雁翎宝刀”と言った名称で出てきます。なぜ、十三妹が日本刀を愛用しているのか。それを知るために、昔の中国人が日本刀をどのように見ているのか見ることにします。
日本刀が文学作品に登場したのは、何も『児女英雄伝』が唯一のものではなく、歴史上、中国には、日本刀を詠んだ詩がいくつかあります[7]。ここでは、先ずは宋代の欧陽脩に登場願います。この名前は、高校の世界史か何かで、聞いたことがあるという人もたくさんいらっしゃると思いますが、一応どんな人物か見てみましょう。
1007~72年、北宋中期の文豪・学者・政治家。吉州盧陵(江西省吉安県)の人。仁宗・英宗・神宗に仕え、革新的な政論や学風振興の先駆をなした。とくに古文の復興、宋代歴史主義の先駆として名高く、唐宋八大家の一人。『新唐書』・『新五代史』を著す[8]。
この文豪でもある欧陽脩が日本刀を『日本刀歌』という題名で詩に読んでいます。長い詩ですので、その途中までをご紹介いたします。
昆夷道遠不復通 昆吾の国は道が遠くてもはや通ぜぬ。 世傳切玉誰能窮 その国では玉をも切るという名刀があったと昔から伝えられているが、誰にもその事実を究明することは出来ない。 寶刀近出日本國 ところが最近、宝刀が日本国から出て、 越賈得之滄海東 越の商人がこれを大海の東で手に入れた。 魚皮装貼香木鞘 鞘は香木に魚の皮を貼って飾り、 黄白閑雑鍮與銅 目釘や柄・鍔などは真鍮の黄色と銅の白色がみごとに混ざり合っている。 百金傳入好事手 百金でもって好事家の手にはいったが、 佩服可以禳妖凶 これを佩びていると災いをはらうことができる[9]。
上で見たように、欧陽脩は、日本の刀を宝刀と呼び、それを佩びていると災いをはらうことができると言っています。非常に高い評価と言えると思います。当時の好事家たちに珍重されたのではないでしょうか。ここでは、武器としての日本刀というよりは、鑑賞用あるいは、魔よけのお守りのような気がします。
宋の次の王朝の元ですが、実際元寇で、日本で戦い、日本刀を持った日本の武士との戦闘もあったことだと思いますが、日本刀が武器として注目されるのは、元の次の王朝である明になってからです。次回は明代から清代における日本刀について、見て行きたいと思います。且聴下回分解!
参考文献
周緯1957『中国兵器史稿』生活・読書・新知三聯書店。
石原道博1960「日本刀歌七種—中国における日本観の一面」『茨城大学文理学部紀要』人文科学(11)。
奥野信太郎、常石茂、村松暎訳1960『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻。
奥野信太郎、常石茂、村松暎訳1961『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻。
立間祥介抄訳1971『児女英雄伝』中国古典文学大系第47巻平凡社。
松枝茂夫1986『中国名詩選』下 岩波書店。
村川堅太郎・江上波男ほか1998『世界史小辞典』山川出版社。
松本零士1999『児女英雄伝』第1巻。
《儿女英雄传》一、二 文康2010 中州古籍出版社。
[1]周緯1957 p302。
[2] 松本零士1999 p51。
[3] 今回も和訳は奥野信太郎、常石茂、村松暎訳1960・1961と立間祥介1971を参考にしています。
[4]周緯1957 p291~p307。
[5]周緯1957 p291~p292。
[6]周緯1957 p301。
[7]石原道博1960。
[8]村川堅太郎・江上波男ほか1998 p103。
[9] 松枝茂夫1986