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ロックと悪魔 第5回 ヨーロッパ中世、物語の中の悪魔

今回は時代を少し下って12世紀以降の中世に物語において描かれる悪魔について見てみたい。この時代の物語は、基本的には昔話の類で作者は不詳であり、編纂者が人々の間で語り継がれている話を書き留めた形で現在に残っていることをまず言っておく。

ここで紹介するのは人間が悪魔と契約をする話であるが、伝承を書き留めて編纂したもので、この種の話だけでも40種類にも及ぶという。樋口正義氏は論文の中で、これらの話をだいたい以下の3つのパターンに分けて紹介している。一度は契約するもその後神に許しを請うことによって許されるパターン、聖母のとりなしによって許されるパターン、それから許されることなく悪魔に殺されてしまう、というパターンである。

神に許される話
最初のパターンを見てみよう。悪魔と契約するが許しを請うことにより許される話である。1250年頃フランスのドミニコ会修道士エティエンヌ・ド・ブルボンによって編纂された『諸種の説教譚修正』の中には、財産を失ってしまった男が悪魔と契約する話がある。男は悪魔のおかげで再び裕福なるが、右手が石炭のように黒くなり洗っても落ちなくなってしまう。そのことを激しく後悔し、教会に行って告白すると右手は再び元の色に戻ったという。

次に、1330年頃に作成された『スカラ・コエリ』の56話や15世紀にカタロニア語で編纂された『ABC順に編成された奇蹟・奇譚・伝説集』の43話で紹介されている「法王シルベストレの奇蹟譚」を見てみよう。ある修道士が悪魔と契約することによって力を得て、次々と出世をし法王シルベストレになる。ある日、悪魔に「あとどのくらい生きられるか?」と聞くと「エルサレムでミサをあげるまで生きられる」と伝えられる。その後、偶然「エルサレム」という名前の教会でミサをあげた時、過ちを悟り、神に懺悔をして自分の手足を切り取らせ絶命するが、神の恩寵によって許される。

聖母の取りなしで許される男の話
聖母に許しを請うパターンを見ていこう。
13世紀中頃にフランスのアグスティン派修道士ジャック・ド・ビトリーが残した『説教譚集』の296話には、博打で財産を失った男が出てくる。彼が困窮のあまり悪魔を呼ぶと、裕福なユダヤ人が現れる。そのユダヤ人はキリストと聖母と聖者を否定せよと迫るが、男は聖母は否定出来ないと断る。その後、聖母像が男にお辞儀をするという奇蹟が起こる。その話を聞いた裕福な男が感動し、自分の娘をその男と結婚させ、男は裕福になる。

20世紀に入りヨーゼフ・クラッパーがまとめた『中世物語』(1914)を見てみよう。ある日、浪費により貧乏になった兵士が、ユダヤ人の手引きによって悪魔に会う。悪魔は神とキリスト教と聖母を否定するよう迫るが、兵士は聖母だけは否定出来ないと答えたので、悪魔とユダヤ人は兵士を見捨てる。兵士はとある礼拝堂の中の聖母子像に慈悲を乞うたところ、聖母の取りなしで幼子のキリストに許される。その奇蹟を目撃した貴族が兵士に金を与え、兵士は裕福になる。

13世紀中頃のスペインで記録されたアルフォンス賢王『聖母讃歌集』の281歌では、やはり財産を失ったフランス騎士が主人公である。ある日彼の前に悪魔が現れ、財産を取り戻してやる代わりに家来となり神と聖者と聖母を否定せよと要求するが、騎士は聖母だけは否定出来ないと言う。悪魔は神と聖者を否定するのだから、今後教会には入らないようにと命令する。騎士がフランス国王のお供で教会に行った時、騎士が教会の外で待っていると、聖母像が騎士に中に入るように手招きをした。その理由を聞かれた騎士は国王に正直に告白し、今後は悪魔と手を切ることを誓う。国王は聖母を否定しなかった騎士を誉めて財産を与える。

これらの話の最大の特徴は、神に直接許しを請うのではなく、聖母にとりなしを頼んでいる点である。元来、父と子と聖霊という男性原理が支配する原始キリスト教の世界には、許しの要素が少ない。つまり、一度罪を犯せば、基本的に許されることが難しい世界なのだ。このような許しがない教義では、布教に不都合が生じるのは火を見るよう明らかだろう。一度の過ちも許さないのでは、多くの人々は恐れをなしてしまうからである。というわけで、カトリック教会は、ケルトやゲルマンの民に布教をするために、許しを与えるシステムを導入する。そして、そこで脚光を浴びたのが、聖母の存在というわけだ。そもそも聖書のレベルでは、聖母マリアへの信仰はそれほど見受けられない。その状況下、本来キリスト教にとっては弾圧の対象であったケルトやゲルマンの異教の神々の中でも特に地母神に目をつける。すなわち、地母神をキリストの母であるマリアに重ね合わせることで異教徒の信仰をキリスト教に回収し、聖母の名において許しを施すことにより人々の罪への不安を和らげようとした、ということであろう。なお、このあたりの事情は田中仁彦氏の『黒マリアの謎』(岩波書店, 1993)に詳しい。

聖母に神を超えた重要な役割を与えることは、キリスト教の教義上大いに問題があるとも言える。しかし、このような聖母が許しを与える話が存在するということは、民衆の間でマリア信仰が根強かったということ、そしてそのような民衆の信仰心を当時のローマ教会が容認せざるをえなかったこと、を示していると言える。また、12世紀の異端として名高いカタリ派について、フランスの言語学者フランソワーズ・ドゥエ氏は、カタリ派の許しを認めない厳しい教義はカトリックにはふさわしくない、とおっしゃっていたことを言い添えておく。キリスト教を母体としながらも、様々な民間宗教を取り込んだのが中世のカトリックの姿であったというわけだ。神に許しを請う「法王シルベストレの奇蹟譚」においては許されるも絶命するのに対し、聖母に許しを請う話では許されるだけではなく、財産を与えられて幸福になる点において聖母への信仰の強さがわかるだろう。

対して、『説教譚集』と『中世物語』おいてはユダヤ人が悪魔の手引きをしていることを注意しておきたい。中世キリスト教はケルトやゲルマンの異教の神々は取り入れたのに、同族の宗教のユダヤ教に関しては中世の頃から既に強い偏見を抱いていたことがわかる。

この手の話について言えば、テオフィロという僧が主人公である一群の話が残されていることを付け加えておきたい。ここではゴンサロ・デ・ベルセオ (1197-1264)が残した『聖母の奇蹟』を見てみよう。あるところにテオフィロという副司教がいた。彼はひょんなことにより降格させられ、落ち込んでいた。そこでユダヤ人が現れ、彼に悪魔を紹介する。悪魔は力を貸す代わりに神と聖母を否定するように要求する。テオフィロがその申し出を受け入れたところ、副司教に復帰する。ところがその過ちに気付き、聖母に懺悔をし、やっとの思いでキリストの許しを得て、その後、息を引き取る。

テオフィロの話が興味深いのは、彼が一度は聖母すらも否定してしまうことだろう。にも関わらず、懺悔をするテオフィロを聖母は許す。聖母がいかに慈愛に満ち寛容であるかがわかるだろう。このことは逆に民衆の聖母に対する信仰と期待が大きかったということを示しているとも言える。

縛り首になる男の話
最後に、悪魔と契約したせいで殺されてしまう話を見てみたい。

14世紀のスペインに残されているドン・フワン・マヌエルの『ルカノール伯爵』(1335) の45話には、財産を失った結果、悪魔に取り入り手下になった男が出てくる。悪魔は男に盗みに入るように指示し、もし窮地に陥ったら「ドン・マルチン、助けてくれ」と言うように言う。男は盗みを重ね金持ちになった。捕まった時も「ドン・マルチン、助けてくれ」と言って、悪魔に助けてもらっていた。ところがある時、悪魔は助けに来ず、とうとう男は縛り首になる。悪魔は最後に、男を死刑台に導くために手を貸したのだと告げる。

次に、やはり14世紀スペインのフワン・ルイスによる『良き恋の書』の「悪魔に魂を売り渡した泥棒の話」(1454-1484連)を見てみよう。悪魔がとある泥棒に、魂を売り渡すなら何でも盗めるようにしてやるし、捕まっても助けてやる、と提案する。その申し出を受けた泥棒は盗みを繰り返し、捕まっても悪魔を呼び出し助けもらっていた。ところが、ある時、捕まって首に縄がかけられると、悪魔がやってきて一度は泥棒を肩に乗せて支えたのだが、やがて「報いを受けよ」と言い放ち、その場から飛び退いたので、泥棒は死んでしまう。

ここには神や聖女も出てこない。従って、神や聖女に許しを請うこともない。盗みという悪事を働く者がその報いを受ける、というのが基本的な内容である。許しという奇蹟の話ではなく、悪いことをすると罰を受けるので悪事に手を染めてはいけないという教訓譚であると言えよう。

悪魔との契約
まとめてみよう。以上の話に共通するのは、悪魔は神に直接逆らってはいない、という点である。サタンはもともと天使であったことを思い出しておこう。つまり神が作った被造物の一つにしか過ぎす、その被造物がいかに力を持ったところで、創造主に逆らって対抗できるべくもないのだ。となると、悪魔が試みることは一つ、同じ被造物である人間にちょっかいを出すことである。そうすることによって、神による世界の救済、あるいは人間の救済という大いなる計画を邪魔することを企てる。神と正面をきって戦うことはできないが、人間に働きかけて神の計画の障害となるくらいの能力しか悪魔は持っていないということだ。

ただし、中世キリスト教世界は悪魔の存在をうまく利用したとも言えることに注意したい。何よりも「許し」を導入できたことは大きい。つまり一度は悪魔に騙されたとしても、謝れば許してもらえるとすれば、人々は失敗を過度に恐れる必要がなくなる。また、一時的に異教の神々への信仰へと走ったとしても、それは悪魔に騙されていたから、という文句を言い訳にしてキリスト教社会に復帰することができる。このことは新たな改宗者を呼び込み、あるいは多くの信徒を繋ぎとめておくことに効果を発揮することになる。なぜなら、許しがなければ、異教徒は恐れをなし、一回罪を犯した信徒は神による懲罰への恐怖から棄教してしまう可能性が増えるからである。

さらに、その「許し」において聖母マリアが大きな役割を果たしていることも重要である。何より、父と子と聖霊という三位一体の男性原理の世界に女性性がもたらされたことが大きい。また、マリアの名の下にケルトやゲルマンなどの異教の神々をキリスト教の内部に導入できたという側面もあったのである。

また、悪魔の存在はこの世に悪が存在することの説明に使われたという側面についても指摘しておきたい。キリスト教の正統な立場から言えば、悪魔の存在は解くことのできない難問=アポリアであり続ける。全能であるはずの神が世界を創造した時になぜ悪魔の存在を許してしまったのか?という問題である。悪魔が神の失敗作であるとするならば、神も失敗することになり、神の無謬性が崩れることになってしまう。全能の神が悪魔を作ったとするのならば、そこにはどういう意味があるのか?これは永遠の難問として聖職者たちを悩ませ続ける。悪魔の存在を否定できる、つまりこの世に悪魔は存在しないと断言できるなら話は簡単なのだが、そうもいかない。なぜなら、実際にこの世に悪は存在するからである。盗みや殺人などを犯す悪人は、どのような社会においてもなくなることはない。だとすれば、そのような悪事の責任を悪魔に押し付けてしまえば良い、と教会は考えたのではないだろうか? 人が悪事に走るのは、悪魔に唆されたに違いない、というわけだ。だとすれば、悪魔に騙されないようにしなければならない、という教えを教会は社会に対して喧伝することができる。そして何より、悪魔は神に対して圧倒的に力に劣るのである。だから、悪魔と契約して一時期は得をしたとしても、最終的には罰せられると信徒に訴えることができる。

悪魔はなぜ存在するのか?については説明できないものの、悪魔の存在を利用して教会はこの世に悪が現存することの説明に成功したというわけだ。

今回の論考は、樋口正義, 「中世ヨーロッパ文学に現れた『悪魔と契約を交した男』の奇蹟譚」, 『龍谷紀要 第8巻第2号』,龍谷大学, 1986 を大いに参考にした。この場を借りて感謝しておきたい。

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