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アゴラまでまだ少し 第12回  皮肉なエロスと本当の言葉

二つの正解、二つの言葉

4年前に日本に帰ってきて実家で暮らし始めたとき、日本の銀行に新しく口座を開く必要があり、近所の銀行に手続きをしに行った。自動ドアを開けて入ると、初老の男性行員がすごく丁寧なお辞儀とともに「いらっしゃいませ。」と言った。平日の早い時間だったのでほとんど待ち時間もなく、すぐに案内される。カウンター越しの担当女性行員が「たいへんお待たせしました。本日は口座開設でございますね。ありがとうございます」とものすごく丁寧な挨拶をした。書類の確認や実印を押す手続きなど、説明するごとに「はい、こちらは○○でございます」「左様でございます」「はい、かしこまりました」とウルトラスーパー丁寧な受け答え。行員の言うことに対して僕が「いや、それはこうです」と言おうものなら、すかさず「大変失礼いたしました」と本当に申し訳なさそうな態度。その言い方たるや、まるで「お客様の猫を間違って私が車で轢き殺してしまいました」とでも言うときの「大変失礼いたしました」。もうちょっとしたらこの人は土下座でもするのではないか、と思ったほど。わずか数分の口座開設手続きの間、いったいどれだけ「—でございます」と「かしこまりました」を聞いたことだろう。銀行を出るときは、さっきの初老の男性行員が「娘の命を救っていただいて本当にありがとうございました」というトーンで深々とお辞儀をしながら「ありがとうございました」と僕の背中越しに声をかけてくれた。

なんなんだこれは。僕はいつから天皇陛下になったんだ。

その数日後、日本で使う携帯電話を買うために秋葉原に行った。大手家電量販店の携帯電話コーナーで店員の若い男性にスマートフォンの機種についていくつか質問をした。その店員はハキハキとした声でよどみなく、こちらの質問の内容を的確に捉えたわかりやすい説明をしてくれた。続けて質問をしても、僕の聞きたいことの核心を捉え、最も簡潔にして明快な答えを返してくる。完璧だ。けれども説明を聞いているあいだ、僕は彼の様子にどこか違和感を感じていた。素晴らしい説明ではある。でも、どこかおかしい。彼の喋り方のどこかに僕の眉をひそめさせる何かがある。それは何か。考えながら彼の説明を聞いていて、ある瞬間それに気づいた。

彼はずっとアニメの美少女キャラの喋り方をしていたのだ。

やたら目がでかくて蛍光色の頭髪を持ち、戦闘服に身を包んだアニメの少女キャラ。まさにあの声そのものだった。あのキャラクターが秋葉原の男性携帯売り場店員に憑依して、僕に完璧なスマホ機種の説明をしていたのだ。時折笑顔すら見せながら、お客様の質問のポイントを巧みに捉え、最も理解しやすい説明でご主人様に最高の気分を味わっていただくため、年間割引きプランがどれだけお得かを説明していた。彼にとってみれば、「お客様に最も高いクオリティーの接客をご提供する」ことを目指して、手に入る情報のすべてを駆使し(その情報ソースが何であるかは別として)、彼なりに最高のカスタマーサティスファクションを追求した結果だったのだろう。

女性銀行員とアキバの男性店員、どちらも接客態度と言葉遣いは「完璧」だった。でもその完璧さにはプロフェッショナリズムには程遠い何かが存在する。僕が彼らに抱いた違和感に共通するもの、それは何か。

不安である。客に対する極端に「正確な」態度の裏に見え隠れする強烈な不安。自分自身の言葉と態度で客という「他者」に向き合うことに対する不安。他者に向き合う自分の言葉を全く持ち得ないからこそ、完璧な外向きの言葉を作り上げているのだ。僕もかつてサラリーマン時代には営業職についていたから、客という匿名の他者に向き合うときの不安はよく理解できる。そして客に向き合うときには当然、自分も店員という匿名の存在を演じなければならいことも理解している。でも、たとえ自分が「店員」を演じる場合でさえ、どこかに「店員を演じるこの自分」が出てしまうのは当然なことで、逆にそれが全く存在しない者、「顔」の見えない店員から何かを購入しようとする客のほうが稀である(売り場で店員に声をかけようとして、店員を「どんな性格の人か」で選んだ経験は読者にもあるだろう)。

最近の若者はマニュアル通りの受け答えしかできないからダメだ、なんて単純なことを言っているのではない。女性行員にしてもアキバの男性店員にしても、決してダメではない。それどころか、接客としては満点をあげてもいいほどのクオリティーで僕の口座を開設してくれ、携帯電話について一切の疑問を晴らしてくれた。「マニュアル通り」だとしたら僕は客として何らかの不満をおぼえていたはずで、「応用がきかない未熟な店員エピソード」として彼らのことを記憶していたはずである。実際にはその逆。実に素晴らしい仕事っぷりだった。でもその素晴らしさが「奇妙なほどに素晴らしい」仕事だったのだ。店員として「正解」か「不正解」かと言えば、もちろん正解である。でも、「正解すぎる」のだ。雑誌の表紙を飾る女性モデルの肌にシミも皺もくすみも何もないことでフォトショップの存在に気づくように、彼ら店員たちの「過剰な正解」の中に、正解を作り上げる「加工」の跡が見えてくるのである。そしてその加工こそがまさに「言葉で他者とつながれない」不安の裏返しだとすれば、彼らの「大正解」こそが不安そのものの表現として理解できたのだ。正解が正解であればあるほど、それはそのまま彼らの不安の強さのサインである。人と直接つながる言葉を発することができない不安と、その事実を隠す力の強さが「大正解」と正体だとすればどうだろう。見えてくるのは、不正解がそのまま正解となり、正解がそのまま不正解となる逆説(パラドクス)の現実である。

そして本当の言葉は消えて

他者へつながる言葉を持てないこと、それがそのまま他者への饒舌で完璧な言葉として我々の生活のいたるところに見出せる、そんなコミュニティに我々が生きているとしたら。「おもてなしの国」の礼儀正しさがそのまま他者と向き合えない人間集団の正体だとしたら。

これは若い世代に限ったことではない。社会学者の宮台真司氏が指摘するように、デジタルメディアなどでの「炎上」現象にも同じ構造が見て取れる。女性タレントや国会議員の不倫が発覚するとネットが炎上する。火を投じている人間たちの「不倫は許されない行為だ」という主張にはもちろん、理が通っているだろう。社会的ルールを破った者を批判しているのだから。でも一昔前の日本という国では、国会議員の不倫や芸能人の枕営業なんてものは「あって当たり前」「当たり前だからこそ、あえて取り上げるまでもないこと」「とりあえず無いことになっているもの」として軽く流されていたことだ。なぜなら、社会的な法は守るべきだと認識されていても、炎上するほどの勢いで人々を法に縛り付ける必要がなかったのである。人はすでに密接につながっていたから。法は法として、ある種の建前として「守るべきことだ」とコミュニティ全体で言われながら、本音の部分で「でもまあ、人は完璧じゃないからな」という了解がどこかで共有されていたから。「悪を排除しろ!抹殺しろ!」と集団ヒステリーを起こさなければ社会システムが回らない、なんて思う必要のないくらい濃密な関係が成立し、「お前が法を犯したら、俺のところでなんとかしてやるよ」といった敗者復活戦を可能にするコミュニティが存在していたから。また「社会」とはそもそもそういうものだ、と認識していたから。「本音」という共通認識が存在し、お互いがお互いの顔を見て言葉で繋がることができていた、つまり仲間意識が社会に存在していた、と宮台氏は分析する。「法を守ってこそ人間だ」という面と「法を完璧に守ることなど出来ないのが人間だ」という面、人間が人間である以上認めなければならない両面が社会に同居していた。それぞれの面は人間に本来備わる矛盾として、「建前」と「本音」に分けられ、同時に共存するという絶妙なバランスがコミュニティに成り立っていたのだ(もちろん、建前と本音の使い分けによって様々な形の煩わしい「しがらみ」を生み出すというマイナス面も存在はしていたが)。そう考えると、僕が体験した店員たちの「極端なまでの正解」も、ネット民の「極端なまでに正しい倫理観の炎上」も、同じ問題の2つのバージョンと理解できないだろうか。本音の消滅という問題、つまり、「他者につながる言葉の消滅」という問題の。

職場で隣に座る同僚に対して、学校で隣に座る同級生に対して、隣の家に住む人に対して、同じマンションの階下の住民に対して「ぶっちゃけ、法って守れないよな。お前もそう思うよな?」と「本音」を語れる可能性は我々にどれだけ残されているだろう。そう語ることで我々人間の不完全さそのものを分厚く共感する相手、不完全な自分たちを深く受け入れてつながれる相手はどれだけいるだろう。そんなこと言おうものならたちまち自分が「炎上」してしまうかもしれない、目の前にいるこの人にはそんな「本音」は通じないかもしれない、この人は建前の言葉を本気で信じているから、本音を言えば自分に罵倒の言葉を浴びせるかもしれない、と恐れるばかりだとしたら。我々はもはや極端に加工された「大正解」の言葉でかろうじてつながるだけのコミュニティに住んでいるのだろうか。奇妙なまでにキレイで微塵のくもりも無くピカピカとした大正解の言葉、「炎上」して相手の人格を否定する言葉、その2種類の言葉でしか繋がれないコミュニティに住んでいるのだろうか。

笑えない現実を笑わせて

アメリカの哲学者シンシア・ウィレットは、コミュニティに深いレベルのつながりを回復する手段として「笑い」に注目する。笑いとは、「正解の言葉」「きれいごと」「真面目な主張」「モラル」などを使わず人々に繋がりをもたらす道具だと彼女は分析する。彼女の著書『Irony in the Age of Empire(帝国の時代の皮肉)』では、現代アメリカにおけるコメディアンたちの役割が哲学的に分析されている。キーワードは彼女が「social eros(社会的エロス)」と呼ぶものだ:

The ludic tone of progressive comedians shifts the focus of ethics from tragic empathy for the victims of hubristic white racial politics to the celebration of those who have the wit and luck to outrun enemies. And when outrun, these enemies look more like housepets. The trickster’s humor diverts and domesticates the predatory drives that divide us into different species. Its seductive force transforms the predatory drives […] into the more friendly pleasures that I like to call social eros.

(革新的コメディアンのふざけた調子は、倫理の焦点をシフトさせる。傲慢な白人の人種差別的政治の被害者を「悲劇的でかわいそうだ」と共感するような態度から、そんな敵どもをはるかに超越するウィットと運を持ち合わせた者を賞賛する態度へと。そこで超越された敵たちはもはやペットのように見えてくるのだ。巧妙な詐欺師(コメディアン)のユーモアは、我々を別種類の人間へと分断する敵の侵略的衝動をかわし、飼いならす。その誘惑的な力は、侵略的衝動をより友好的な悦びへと、私が社会的エロスと呼ぶ悦びへと変化させるのである。)

エロスというのは性的なものだけではない。「性的」ではなく「生的」なもの、人間のより根源的な生存のための衝動であり、肉体に力を与え、理性を超えて肉体に直接働きかけるエネルギーの源泉である。「腹の底から笑う」という表現があるように、笑いとはまず身体的な行為であって、我々の身体に振動と衝撃を与えるもの、我々を熱くするものなのだ。それがコミュニティにおいて共有されるのが「社会的エロス」なのである。

ウィレットはアメリカの大人気コメディエンヌ、マーガレット・チョーのスタンドアップコメディーを例に出している。韓国系アメリカ人であるチョーは自らがLGBT(性的マイノリティー)であることを公表し、人種・性・政治など、テレビでは決して放送できない露骨な表現を使い、社会のタブーに切り込み、差別のシステムを危ないギャグにして徹底的に笑い飛ばす。例えば、アメリカ生まれであるにもかかわらず自分がアジア人の外見を持つことだけで、いまだに白人に「君はどこの出身なの?」と聞かれ、その白人が思いつく韓国の文化を表面的に話題にされること(例えば日本人に対してなら「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」といった感じのこと)に触れ、逆の立場に置き換えてみてごらん、と観客に言う。アジア系アメリカ人が道で白人をつかまえて「ねえあんた、フランスの出身じゃない?いや、最近のことじゃなくて、数百年前のことよ。やっぱり、思ったとおりだ。あたしフレンチフライ大好きなの!」と言ったらどうだろう、と。また911のアメリカ同時多発テロに触れて、真面目な顔でこう語る。「これはアメリカにとって悲劇的な時代だった。あたしは何回もニューヨークへ、グラウンドゼロ(世界貿易センタービル跡地)へ行ったわ。そして来る日も来る日も、悲劇のレスキュー隊たちに**をしてあげた。だって誰にでもそれぞれ役割ってものがあるでしょう。非常事態の時には自分自身に多くの発見があるものなの。あたしは自分に咽頭反射(のどに物をを入れてオエッとなる反射)が無くなっていることを発見したの。これこそ人間精神の勝利ってものだわ。」(**は筆者による自主規制。チョーはライブで直接の名称を言い放っている。)

嘔吐感をおぼえるような悲劇を「咽頭反射の消滅」という逆転によって喜劇に変える。白人のアジア人に対するステレオタイプを逆転することで、ステレオタイプというものがいかに馬鹿げたものかを笑い飛ばす。社会的な差別・抑圧を指差して「これは悪だ」と正論を述べるのではなく、つまり悪のシステムを「否定」して「正解」を示すのではなく、悪のシステムにあえて乗っかり、それをさらに強烈な悪に高めて演じることで、システムそのもののバカバカしさを笑いながら見下ろす。評論家やジャーナリストたちが真面目な顔で「こんな社会システムはおかしい」と批判を繰り返すよりはるかに強力に、システムの「おかしさ」そのものを、笑いがこみ上げてくる「おかしさ」にまで昇華することで人を繋ぐ。日本のお笑いで言うところの「一辺回っておもしろい」地点に大衆を連れていく。こみ上げてくるおかしさに思わず笑ってしまった者どうしは身体を震わせ、同じヴァイブスを感じることで「腹の底」でつながる。「法を守ることができない、狂ったシステムしか作れない愚かでおかしな人間そのもの」を「理解する」のではなく、本音のレベルで「感じる」のだ。

トランプ政権発足後のアメリカにおいて今やスティーヴン・コルベアやジョン・スチュワート、エイミー・シューマー、ジミー・キメルといったコメディアンたちが非常に高い社会的地位を獲得し、体制に対する痛烈なジョークで国民の心を掴んでいることも「笑い」の社会的・民主主義的パワーを示している。有名オピニオン誌『The Atlantic』は2015年に「How Comedians Became Public Intellectuals(いかにしてコメディアンたちは知識人となったか)」という記事を掲載し、アメリカ社会におけるコメディアンたちの役割を讃えている。ただ、笑いには常に危険性が伴うのも事実で、嘲笑の武器としても機能する笑いは、ターゲットを誤ればいとも簡単に弱者への差別を生み出し、ヘイトを増幅させる道具にもなり得る。上記の記事が発表された直後に、同じく有名オピニオン誌『The New Republic』が「Comedians Are Funny, Not Public Intellectuals(コメディアンたちは面白いだけ、知識人ではない)」という記事を掲載し、笑いとは大衆に迎合するエンターテイメントであって、本当の知識人・評論家たちの熟考よる深い分析には匹敵しない、と反論を展開した。

賛否両論はありながらも、大学のキャンパスで銃乱射事件が起きるたび、大統領が問題発言を繰り返すたび、社会格差を増幅させる政策を発表するたび、その日の夜は各局のトークショー番組のホストであるコメディアンたちが時事ネタの痛烈なジョーク合戦を繰り広げているのは事実。彼らのジョークが視聴者の溜飲を下げ、アメリカという国の在り方を問いただし、狂ったシステムを熱く笑い飛ばす視点・世論を形成しているのは間違いないだろう。多くのアメリカ人がコメディに対して、単なるガス抜きエンターテイメント以上の役割を期待しているのがよく理解できる。かつて世界中の若者がロックンロールに見出した「反抗」の精神が今やアメリカにおいては笑いに継承されているとも言えるだろう。

ウィレットは先の著書の中で、現代アメリカを代表する哲学者コーネル・ウェストの言葉にも触れている。ウェストこそ「社会的エロス」で、抽象的な理論ではないレベルで、身体的なヴァイヴスで人々を繋げることを哲学の崇高な役割だとする哲学者だ。ウェストは言う:

The interesting question is the relationship between the ethical and the erotic.... [T]he erotic without the ethical can become just thoroughly licentious in the most flat hedonistic sense. But the erotic fused with the ethical means there is respect for the other, and that respect for the other also means being attentive to needs of the other given their erotic energies.

(倫理的なものとエロス的なものの関係こそ興味深い問題である。倫理の無いエロスは最も薄っぺらで快楽主義的な意味で、単に猥褻なだけになる。だが倫理と融合したエロスは他者への敬意を表し、他者への敬意はまた、エロス的エネルギーを持つ他者の声に耳を傾ける態度を示すのである。)

本音で繋がるための言葉を発するのが日に日に困難になっていく日本で、我々が「完璧な正論の言葉」と「炎上による罵倒の言葉」の堂々巡りを超えて、分断されてしまった自分たち、本音で語れない自分たちを一辺回って笑い飛ばせる日はくるのだろうか。

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