新たな哲学史の必要性田上孝一

 かつて我が国においてもそれなりに盛んだったが、近年はすっかり衰退してしまった理論活動の一つに「ブルジョア哲学批判」がある。これが盛んだったのは、哲学に対して、それがブルジョア社会たる資本主義を自覚的または無自覚的に擁護しているかどうかを批判の基準点とする哲学関係者、いわゆる「マルクス主義哲学」の支持者や擁護者がそれなりに多くいたからである。だからそうしたマルクス主義哲学者が目に見えて減少したのが、かつてのようなブルジョア哲学批判を見かけなくなった直接的な理由になる。

 そしてそうしたマルクス主義哲学というか、この場合はマルクス主義一般にいえることだが、批判対象をブルジョア・イデオロギ―として糾弾するような思潮は、ある時期を境に目に見えて減少した。言うまでもなくソ連東欧の現実(に存在した)社会主義の崩壊である。

 勿論、ブルジョア哲学批判を喧伝していた論者の多くは、ソ連は「本当の社会主義」ではないのだから、ソ連崩壊がブルジョア哲学の正当性の証明にならないというような、それ自身は正しい主張を繰り返しはした。それでも批判のトーンが弱まり、やがては消えて行ったのは、実際にはソ連が社会主義ではないということを、批判者が依拠しているはずのマルクス自身の哲学でもって確固として原理的に明確化できなかったからではないか。

 そして旧来の「ブルジョア哲学批判者」が現実社会主義をマルクス自身の哲学を原理にして批判できなかった理由も判明している。それは批判原理でありうる概念それ自体に対して、旧来のマルクス主義哲学者の多くが批判的だったからである。

 ソ連はなぜ社会主義ではないのか。ソ連が社会主義でないことをマルクス自身の哲学によって明確化できるのはなぜなのか?そしてなぜ旧来のマルクス主義哲学はまさに哲学的な原理的レベルでソ連のような現実社会主義を批判的に位置付けることができなかったのか?

それは旧来のマルクス主義哲学の主流的多数が、マルクスの哲学的核心を正しく疎外論として掴み、そうしたマルクスの疎外論を現実社会主義に対する批判原理とすることができなかったからである。それどころか、これまでブルジョア哲学批判を繰り広げてきたような内外のマルクス主義哲学者の多くが、疎外論に対して否定的なスタンスを取っていた。

マルクスの疎外論に対する定番的な批判は、疎外論はマルクスの若き日の未熟な理論であって、後にマルクス自身によって批判的に克服されたというマルクス解釈に依拠するものである。

こうした「疎外論超克説」に対しては、まさにそれを主題にして徹底的に反駁した博士論文(『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』時潮社、2000年)以来、折に触れてその誤謬を指摘してきた。現在行われているマルクス解釈を瞥見しても、疎外論超克説に親和的なのは概ね畑違いの素人的解釈者であり、マルクスの専門研究者で疎外論超克説を支持しているケースは殆ど見かけなくなった。

こうしたマルクスの疎外論にかつてのブルジョア哲学批判者が否定的だったのは、彼らが往々にしてソ連や東独といった現実社会主義のマルクス研究に親和的だったことと対応している。なぜなら、疎外論超克説は現実社会主義では定説的なマルクス解釈になっていたからである。そして疎外論批判が現実社会主義で盛んだった理由も極めて分かり易い。自らの社会を社会主義と自称しているにもかかわらず、そこには資本主義での疎外と類似した現象があるのではないかと批判されるのを恐れたためである。だから、現実社会主義は疎外論を若きマルクスの未熟な理論だと貶めると共に、疎外論が適用されるのは資本主義のみであることを強調し続けた。そしてソ連は社会主義だから疎外は存在しないなどという出鱈目が大真面目に主張され、あろうことか我が国のマルクス主義者の中には、こうしたプロパガンダを受け入れるような者もいたのである。

言うまでもなく事実は全く反対である。ソ連には疎外が存在しないどころか、ソ連社会内部での労働過程の基本性格は疎外された労働そのものだったのである。

そしてまさに疎外論こそが、社会主義とはその本質においては何であるのかを明確にできる理論なのである。

社会主義とは資本主義の否定であり反転である。『資本論』で強調されたような資本主義での転倒した人間関係を再転倒させて正立させるのが社会主義である。そして資本主義の最も基本的な本質は、労働者の労働過程からの疎外である。なぜなら資本とは、これまでの旧著で繰り返し説明してきたように、疎外された労働生産物の怪物的転化だからである。

だからその社会において労働過程の疎外的性格が払拭されているかどうかが、その社会が資本主義であることの最も基本的なメルクマールである。言うまでもなくソ連のような現実社会主義での労働過程は資本主義同様に疎外されていた。このことが意味するのは、現実社会主義はその本質が労働者の労働過程からの疎外であるという点で、資本主義と同じ社会だということである。

ただし、現実社会主義は資本主義と全く同じではない。資本主義では疎外された生産物が資本に転化するのに対して、現実社会主義では官僚制度に転化するからである。しかしその基本構造は同じである。どちらも人間が自らの生み出した生産物によって自らの意志に反して支配される社会である。そしてこの事実が何を意味するかも明白である。資本主義が社会主義でないのと同じ理由で、現実社会主義は社会主義ではないということである。

こうして人間が自らの産物によって支配される事態を批判したのがマルクスであり、マルクスの疎外論である。従ってマルクスの理論に基づいてこそ、現実社会主義が社会主義でないことが明確になるのである。

言うまでもなくこうした認識が旧来のマルクス主義、取り分け「ブルジョア哲学批判」に精を出していたような現実社会主義シンパ的な旧態依然のマルクス主義者には欠如していた。そのため、このようなマルクス主義を自称しながら疎外論批判という愚策によってマルクスの真意を掴めなかった時代遅れの人々は、自然消滅する他なかったのである。

しかし問題はこれで終わらなかった。現実社会主義が終焉して資本主義が勝ったかのよう見えたのも束の間、資本主義はその固有な運動力学によって、以前と変わらぬ社会病理を再生産し続けているからである。

このことが意味するのは、ソ連崩壊によってブルジョア哲学批判の役目が終わったどころではないということである。必要なのは、かつてのようなソ連の現存を基準にした教条的批判ではなく、マルクスの理論に基づきつつ未来の理想である共産主義を規範とした上で、現状擁護的な哲学思潮に対して批判的に分析することである。

こうしたブルジョア哲学批判の一つの模範は、疑いもなくルカーチの『理性の破壊』(1954年)である。それが模範となるのは、合理主義の近代的完成としてヘーゲル哲学を捉え、ヘーゲルの批判的継承者としてのマルクスの立場から現代哲学の諸潮流を幅広く批判しようと試みたからである。そしてこのルカーチに労作の理論的限界も明確である。それはまさにこれまで厳しく批判したような、ソ連という現実社会主義を後ろ盾にして基準点とした批判に過ぎなかったからである。

そこでこれから求められるのは、先ずはマルクス自身の哲学である疎外論に立脚して、資本主義を意識的または無意識的に擁護する思潮を批判できるような新たなマルクス主義哲学である。マルクス主義がアクチュアリティのある思潮として現代諸思想と伍していくためには、旧来型の「弁証法的唯物論」の類では全く話にはならない。旧来のマルクス主義哲学は陰に陽にソ連や中国といった現実社会主義の後ろ盾によってその説得力を担保してきた。現実社会主義が崩壊し、崩壊せずに残った中国のような国々も事実上の資本主義路線を取っている今となっては、かつてのような「ブルジョア哲学批判」の説得力は殆どない。全く新たに再構築する必要があるわけだ。

そうした新たなマルクス主義哲学の今後の展開に際して、現代哲学の諸潮流の批判と共に、そうした批判の前提として必要なのは、哲学史全体の捉え直しであろう。哲学史がヘーゲルの言うように理性の発展史ならば、それは人類の理想の追求史でもあるだろう。よりよい人間と社会のあり方を求めたの自覚的または無自覚的な探求の痕跡が、哲学の歴史に刻まれている。近代以降にはそれは社会主義や共産主義の諸思潮として明確になる。近代社会の土台が資本主義だからであり、理想のあり方が資本主義の否定として捉えられるようになるからである。

当然近代以前には資本主義はなく、資本主義を否定する思潮もない。しかし古代社会も商品貨幣経済であり、商品貨幣経済ならではの弊害が、深く人々の心に刻まれていた。これは哲学の歴史の必然的な裏面でもある。なぜなら、哲学の発生と商品貨幣経済の発生は切っても切れない関係にあるからだ。

アリストテレスによって最初の哲学者とされたタレスが暮らしたミレトスは、最初期の貨幣経済社会の一つだった。哲学とは抽象的に世界を思考する営みである。抽象的に考える習慣が十二分に根付いた社会の中からでこそ抽象的思考の精華である哲学が生まれる。人々がその日常生活において貨幣を用いて、正確に計算するという思考習慣が根付かなければ、物事の本質を抽象的な理論でもって明確化しようとする思想は育たないだろう。

そして貨幣経済に支えられた生活の中から、ソクラテスがしたように金銭に囚われることへの倫理的批判も生じる。哲学は日常生活を超越するように見えるが、実際はむしろ日常生活の実像を写し出す傾向を有する。

こうして資本主義批判の前には商品貨幣経済批判があった。そして哲学はその批判の記憶を刻み込んでいた。こうした商品貨幣経済批判史という前史を含んだ「資本主義批判史」として哲学史を捉え返せないかというのが、私がこれから取り組みたい課題である。そしてその後に、新たなブルジョア哲学批判を微力ながらも試みたいというのが、ここ最近考えていることである。そしてこの私の新たな試みは、現代におけるマルクス主義哲学再生への一つのコミットメントでもある。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)