十分でわかる日本古典文学のキモ 第十一回 源氏物語・中  助川幸逸郎

藤原・・道長の時代に『源氏・・物語』が読まれた理由

『源氏物語』正編の主人公は、いうまでもなく光源氏です。彼は帝の子として誕生、さいごには絶対権力を手にします。

 光源氏の生涯にわたるライバルが頭中将。こちらは、藤原摂関家の嫡男です。光源氏の正妻・葵上のきょうだいで、容姿も才能も抜群。にもかかわらず、政争でも趣味の道でも、光源氏の後塵を拝したままおわります。

「源氏代表」が「藤原氏代表」をボコボコにする。『源氏』正編というのは、そういう物語です。この作品を手がけた紫式部は、藤原道長の娘である彰子づきの女房。道長は、当時の執政者でした。娘の家庭教師として現役首相にやとわれた女性が、与野党逆転小説を公表する。『源氏物語』執筆は、これに相当する「不穏ないとなみ」にみえます。

 しかし、『紫式部日記』によると、道長はこの物語に好意的だったらしい。ほかの氏族が圧倒的な栄華にいたる。そんなフィクションを、どうして現実の権力者が許容したのでしょうか?

 道長はじぶんが光源氏だと信じていたから――これが、わたしの想定する回答です。

 皇族、もしくは大臣級の源氏といった「天皇と血のちかい家」から妻を迎える。そうすることでみずからの家筋を、さらに尊貴なものにする。そんな理想を、藤原摂関家の男たちは共有していました。たとえば、道長の妻ふたりは、いずれも源氏の大臣の娘。道長の嫡男・頼通の正妻は、具平親王の娘です。

 ところが、道長政権時代、「天皇と血のちかい子女」は急減していました。最大の理由は、「藤原摂関家がほかの貴族を圧倒したこと」です。

さかのぼること百年、当時の帝王・醍醐天皇には二十人のキサキがありました。彼女たちがもうけた皇子女は三十六人。これに対し、道長の「共同統治者」だった一条天皇のキサキは五人です。皇子女も五人をかぞえるにすぎません。藤原摂関家から出たキサキを母にもつ皇子しか、帝位につけない。この傾向が固まるにつれ、「娘を入内させてもムダ」とかんがえる貴族もふえる。こうしてキサキの数は減り、皇子女もうまれなくなる――このような流れが、一条天皇の時代にはすでに明確でした。

「天皇の血」が希少になればそれだけ、これを取りこむ意義も重くなります。道長はみずからのファミリーを、「藤原」とみなしていなかったはずです。藤原に皇族を接ぎ木した「ハイブリッド貴族」。おそらくそれが、道長の自己イメージでした。

 頭中将の息子である柏木は、皇女との結婚に異様な執着を燃やします。父は、「天皇の血」とのつながりをつよめる努力をおこたった。それがたたって生涯、光源氏におよばなかった――そういった「無念のおもい」が、柏木を皇女獲得に走らせたのでした。

「ハイブリッド貴族」になりきれなかった頭中将。そんな男が光源氏に敗れても、道長は同情しなかったはずです。いっぽう光源氏には、源高明だけでなく、藤原良房の面影もかさねられています(注)。良房は、藤原氏としてはじめて摂政になったひと。光源氏は、ミナモトとフジワラの「ハイブリッド貴族」として描かれるのです。とすれば、道長がみずからをなぞらえたのは光源氏だったはず。そうかんがえると、『源氏物語』をよろこんで迎えたのも当然です。

(注)権力者となった光源氏は、私邸で「白馬あおうまの節会」を催します。これは、正月七日に、邪気をはらうとされる白馬を群臣がみる儀式。宮中行事なので、臣下の家で実施するのはタブーです。にもかかわらず光源氏は、良房がやったのをまねてこれを挙行した。物語にはそう書かれています。

「良房の後継者」として光源氏を語る方針が、ここにはっきりと打ちだされています。光源氏は「ハイブリッド貴族」ゆえに尊い。それが作品世界の価値観なのです。

〇光源氏が「超絶美形」に設定された意義

 光源氏は、知られているとおり、あらゆる面で「スペック最強」です。

「紫式部は、光源氏を語ることで、理想の男性を描いた」

 そんな意見もしばしば耳にします。

 結論からいえば、「光源氏は作者の偶像」というこの説にわたしは反対です。どれほど「よい条件」をそろえた男性でも、それだけでは幸せになれない――このことをしめすべく、おもいきりハイスペックな主人公を設定した。わたしはそんな見かたをしています。

 父帝の后であり、亡き母に生きうつしとされる藤壺。光源氏はこの女性と密通し、男児をもうけます。藤壺が生んだ不義の子は、父帝の皇子として育ち、冷泉帝となる。即位ののち、彼は光源氏が実父であることを知らされます。父親を臣とすることを憚った冷泉帝は、光源氏に譲位を打診する。光源氏は固辞したものの、冷泉帝は以降、光源氏の意向に極力添おうとつとめます。光源氏の絶対権力は、「危険な恋」の果実だったのです。

 光源氏のさいしょの正妻は、すでにふれたとおり葵上でした。彼女はしかし、二十五歳の若さで逝去。以後、幼少期から手もとに置いていた紫上を、最愛のひととして遇します。紫上は藤壺のめいで、容姿も叔母とうりふたつです。

 四十歳を前に、光源氏は上皇に准じる地位を得ます。身分におもみをました彼こそ、わが最愛の娘・女三宮の婿にふさわしい。そう判断した朱雀院――光源氏の長兄――は、縁組を提案する。光源氏はこの申し出を受諾。女三宮をふたり目の正妻に迎えました。

 光源氏は、女三宮に失望します。女三宮は十五歳、たしかに若すぎるとはいえ、十歳の紫上とはもっとまともな会話ができた――そのように嘆く光源氏は、じぶんの加齢を忘れている。紫上をひきとったとき、彼は十七歳。それがいまでは四十歳。紫上とは七つちがいなのに、女三宮とは二十五歳の差。このギャップは親子レベルです。

 光源氏は、女三宮をないがしろにしている。世間でも、そういううわさ・・・がささやかれはじめます。これを聴いて心をみだしたのが、頭中将の子である柏木です。さきに記したとおり彼は、皇女との結婚に執着があった。女三宮の婿えらびにも名のりをあげ、のぞみがかなわず無念を感じていました。こんな事態になるなら、じぶんを婿にえらんでくれたほうが――そうした「義憤」から柏木は、女三宮への道ならぬ恋をつのらせます。

 紫上は、光源氏と結婚するに際し、実家の支援をうけられませんでした。このためかたちのうえでは、彼女は光源氏の正妻ではなかった。それでも、自他ともにみとめる「光源氏最愛の女性」でした。その立場を、女三宮によって揺るがされた。不安な状況を耐えしのぼうとする紫上ですが、限界がきます。命があやういほどの病に取りつかれたのです。

 光源氏は、紫上の看病にかかりきりになります。女三宮の身辺に彼の目はとどきません。そのすきを突くように、柏木は積年の思いをとげてしまう。女三宮は、柏木の子を身ごもります。

 柏木と女三宮の密事。これに光源氏が気づくまでに、時間はかかりませんでした。光源氏には、父帝の后とのあいだに不義の子をもうけた過去があります。じぶんもおなじあやまちを犯したゆえに、柏木に寛容になる。そういう心理がはたらきそうなものですが、光源氏はちがっていました――中国の歴史をひもとけば、皇帝の妻とまちがいのあった男は何人もみつかる。わたしの妻に手をだした不届き者は、世界に柏木ひとりだけだ。こんな無茶苦茶な論理を展開し、柏木への怒りをたぎらせます。

 女三宮との関係を、光源氏に知られたのではないか。これを懸念して引きこもる柏木に、光源氏は呼びだしをかけます。悪酔いした体をよそおい、柏木に非難をあびせる光源氏。じぶんがなにをしたのか、このひとにはばれている――衝撃をうけた柏木は、そのまま病に臥し亡くなりました。

 女三宮は、柏木の子を出産し、まもなく落飾。紫上もこの世を去ります。光源氏は、孤独のうちに取りのこされました。紫上哀悼の一年をおくるなか、彼自身も出家の決意をかためる。『源氏物語』正編は、こうして幕をおろします。

 死を目前にした紫上がすごした日々と、彼女を追慕する光源氏の一年。両者のうわべは、ほとんど変わりません。うつろう季節に心をうごかし、旧知の人びとと歌を詠みかわす。ただ、そこにうかびあがるふたりの心境は、残酷なまでに対照的です。

 紫上は、目にうつるものすべてを、見おさめとおもっていつくしむ。光源氏のほかの妻たちにも、わだかまりを捨てて、気持のこもった歌をおくります。そういう高みにいたった彼女は、もはや光源氏にはなにも期待しない。じぶんが亡くなったら、光源氏はどれほど悲しむか。そのことだけを気にかけています。

 いっぽう、「最後の光源氏」は、だれとも心をかよわせられません。なにを感じても、紫上をうしなった痛みにすべて帰着させてしまう。象徴的なのが、女三宮と対座する場面です。紫上喪失をなげく光源氏。女三宮はこれに応じていいます。「世を捨てて尼となったわたしには、お気持を理解するちからはありません」。これを聴いて光源氏は腹をたてる。この俺の気持がわからないなんて、よくもそんな無神経なせりふがいえたものだ――女三宮の反応は、客観的にみれば常識にかなっています。光源氏は、つらさのあまり認知がゆがみ、被害妄想におちいっていたのです。

 最強の条件をそろえてこの世にうまれた。絶世の美女たちと恋をして、至高の権力も手中にした。そんな光源氏を、『源氏物語』は救いようのない精神をかかえて死にむかわせます。男性の価値は、スペックではきまらない――これをいわんがために、光源氏は造型されたのではないか。わたしには、そうおもえてなりません。

〇「個人のはなし」と「セカイのはなし」がだまし絵・・・・のように組みあわさる

『源氏物語』のこのような主張に、女性なら共感したかもしれません。けれども、同時代の男性たちは同意しなかったでしょう。官位の昇進、儀礼でまかされる役割、勅撰和歌集にえらばれた自作の歌の数。貴族の男たちは、こうした「わかりやすいものさし」にとらわれて生きていました。

単純に「スペックのたし算」をしていくだけでは幸せになれない。こんな「本音」をあからさまにのべて、男性読者にそっぽをむかれる。紫式部としても、これは「避けるべき事態」だったはずです。みずから手がけた物語を、女性以外にも読ませる。前回説明したとおり、紫式部の悲願はそこにありました。

 男の好まないテーマをもつ作品を、男にうけいれさせる――この難題を解決すべく、紫式部が打った手はおどろくべきものでした。『源氏物語』に、男性がよろこぶ「もうひとつの顔」をあたえたのです。

 光源氏は三十三歳にして、太政大臣に昇進。同時に頭中将が、関白を兼ねた内大臣となりました。

 摂政もしくは関白をつとめるのは、現職の太政大臣のみ――藤原良房が摂政を命じられてから二百年以上のあいだ、それが原則でした。例外が生じたのは、『源氏物語』が書かれた当時の帝王・一条天皇即位の折。それまで関白兼太政大臣の地位にあったのは、藤原頼忠でした。頼忠は、一条天皇とのつながりがうすく、政治的後見となるにふさわしくない。いっぽう、右大臣・藤原兼家は、天皇の母方祖父でした。このため、一条天皇の摂政には兼家がえらばれた。頼忠は、「ただの太政大臣」に降格します。

 摂政関白を別人がつとめる状況での太政大臣就任――頼忠の例をきっかけに、このたぐいの人事がしばしばおこなわれるようになりました。摂政・関白になれそうにない長老。彼らを遇する名誉職として、「ただの太政大臣」は定着したのです。

 光源氏を、現れはじめたばかりの「ただの太政大臣」の地位につける。これだけでも、同時代の男性読者は膝を打ったはずです。「この物語には、現代政治のリアルが描かれている……」。しかしそれだけではありません。『源氏物語』は、「権力の未来」まで予言しているのです。

 内大臣は、格として太政大臣より下。とはいえ、帝を補佐する権限は、摂政・関白にあります。「ただの太政大臣」と関白内大臣。両者がならびたったら、まつりごとを左右するちからは関白内大臣のものです。

 光源氏が「ただの太政大臣」のポストに配された。この時点で、政治の実権は頭中将のものになったはずです。ところが、「物語世界内の現実」は、これとは異なります。時の君主は冷泉帝。この帝王が、光源氏を実父としてあがめているからです(まえにもこの点にはふれました)。

 帝を意のままにできるなら、光源氏みずからが「関白太政大臣」になればいい。いっけん、そんなふうにもおもえます。ここに、光源氏の深慮遠謀がありました。

摂政・関白の職能は、公的な地位である以上、法や先例に規制される。「帝の父」の発言力には、このような拘束はありません。さらに太政大臣も、執務内容は漠然としている(『職員令』に記された規定は「帝の師匠となり、天下に模範をしめす役」。具体的になにをするのかは、あいまいです)。よって、「帝の父」である「ただの太政大臣」は、際限なく権力をふるうことができる。光源氏は、この点に目をつけたのです。

 摂政・関白を差しおき、帝の直系尊属として統治をおこなう。『源氏物語』の成立以前に、こんなやりかたはだれも実践していません。そして、この物語の完結後、光源氏を踏襲するような権力者があらわれました。ほかならぬ藤原道長です。

 長和五年(一〇一五)、道長の孫にあたる敦成親王が八歳で即位しました。後一条天皇です。このとき道長は、摂政の座につきました。それから一年たらずで、兼職していた左大臣を辞任。摂政も、ほどなく返上してしまいます。こののち道長はずっと、「無官の人」で通しました(三か月間だけ、「ただの太政大臣」に就任していたことはあります。後一条の元服に際し、加冠役をつとめるためでした)。いかなる公職にもつかないことで、ほかの臣下から隔絶した存在になる。そのうえで、「天皇の祖父」として圧倒的な権力を行使する。これが道長のねらいでした(注)。

 (注)後一条天皇の父方祖父は円融院、父は一条院。両者はともに、後一条の即位に先だって他界しています。存命の男性直系尊属は道長ひとりで、皇位を継いだときにはわずか八歳。後一条はまさに、道長にとって「いかようにも操れる天皇」でした。

 天皇の父や祖父という資格がある場合、摂政・関白の地位はむしろ足かせとなる。この事実に道長は、『源氏物語』をよむことで気づいたのではないか。そんな想像さえしてみたくなります。ともあれ、道長の「新型権力」をこの物語はさきどりしていた。政局分析においても、それだけ傑出していたわけです。

『源氏物語』はこのように、「政治学の書」として読むこともできる。こちらに対してなら、男性貴族も興味をいだいたのは確実です。

 紫式部は、男性の歓心を買うような「もうひとつの顔」を自作に用意しました。男の価値はスペックでは決まらない。この主張は、個人のあるべき姿を問いかけます(これがしめされる「場」も、おもに光源氏の私生活空間です)。いっぽう「政治権力の解明」は、社会構造=セカイを対象とする。ふたつの要因は、どういう関係にあるのでしょうか。セカイにかかわる話柄。これは、「個人のはなし」を男性にうけいれさせる方便なのか。それとも真の眼目はセカイにあり、「個人のはなし」はそのパーツのひとつなのか。

『ルビンの壺』と題されたイラストがあります。白の部分を背景とみれば、向かいあった人間の顔の図。黒いほうをバックとみなすなら、描かれているのは杯。白黒どちらに焦点をあわせるかで、ふたつのちがった対象がうかびあがる。だまし絵と呼ばれるジャンルを代表する作です。

『源氏物語』正編は、この『ルビンの壺』と似ています。「個人のはなし」として読もうとすれば、普遍的な「内面の劇」がうかびあがる。「セカイのはなし」とおもってひもとくと、当時の権力機構がみえてくる。どちらかいっぽうに焦点をあわせているときに、もういっぽうは背景にしりぞく。この物語は、そうしたしくみになっています。

 光源氏のありかたの否定。これは、スペック追求に余念のない、同時代男性全般への批判でもあります。紫式部は、それを「わかるひとだけにつたわるもの」にとどめたかった。それでこんな構造を自作にあたえた。わたしはそうかんがえます。

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう)
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。