十分でわかる日本古典文学のキモ 第十回 源氏物語・上  助川幸逸郎

〇道長は森喜朗に似ている?

 わたしがいちばんされるのをおそれている質問。それは「先生のご専門はなんですか?」です。いただいたお話は基本的にうけるので、わたしの執筆・講演リストはカオス。アニメやアイドルに、村上春樹やカズオイシグロがならびます。

 もともと、大学や大学院で勉強していたのは、『源氏物語』でした。平安時代の衣装や調度品に魅了されたのが、小学二年生のころ(平将門が主役の大河ドラマ『風と雲と虹と』をみたのがきっかけでした。十二単を着た吉永小百合がかわいかった)。その翌年には、『源氏物語』と『百人一首』の沼にはまります。わたしの「古典トーク」に、小学校の先生も両親もつきあってくれず――「孤独」というものを、うまれてはじめて実感したのはこのときです(笑)。

 こうしたわけで、紫式部とその周辺の人びととは、半世紀ちかいつきあいになります。これだけの期間、かかわりあった相手となると、まさに「腐れ縁の友人」です。声の調子、体臭、そんなものまでわかっている気がしてきます。

 たとえば、紫式部の「雇用主」だった道長。彼は時の最高権力者であり、『御堂関白記』という日記をのこしました。この日記から浮かびあがる道長像は、神経質で小心、そのぶん、用意周到。いっぽう『大鏡』などに記された言動には、磊落な印象があります。

 豪放な人物のように振るまいながら、じっさいには石橋をたたいて渡る――こんな「道長おじさん」は、現在でもたいてい出世します。些事をほんとうにかまわないひとは、能力があっても足もとをすくわれる。かといって、見るからにそつがないタイプは警戒されやすい。宴席などの「社交の場」では野人のごとく、仕事にのぞむ折には慎重居士――最後に勝ちのこるのは、古今を問わず「道長おじさん」です。

「道長おじさん」の典型を現代にもとめるなら、森喜朗氏になるでしょうか。首相をつとめたあと、東京オリンピック&パラリンピックの組織委員会会長に就任。「位、人臣をきわめる」ということばが、森氏にはぴったり当てはまります。

 反面、数々の失言でも森氏は有名です。それらの多くは、「仲間に対する過剰なサービス精神」にどうやら由来している。宴席や、自分が座長をしている会合で、ウケをねらって「極論」を吐く。はからずもそれが外部にもれ、バッシングのまとになる。森氏の「失言」には、このパターンが目立ちます。じっさい、宴席での森氏のサービスぶりには涙ぐましいものがあるのだとか。「仲間」の歓心を買いたくて、向こうみずをよそおいきわどいセリフをいう。この性癖がたたって、森氏は「失言魔」になっているのです。

森氏は、「ノミの心臓」といわれるほどの小心者でもあります。怖がりだからよけい、身内を固めたい意識もつよいのでしょう。そのように気をつかって仲間たちの支持をあつめ、森氏はこんにちの地位を得た。「チキン」と「偽装された無雑作」と「高い地位」。森氏において、この三者は一体化しています。

〇道長のセクハラ疑惑

 身内を極限までひいき・・・にする。裏をかえせばこれは、身内いがいはまともにあつかわないということです。森氏は、セクハラ、女性蔑視発言でもしばしば「渦中のひと」となります。女性はおしなべて「身内」ではない。だから、支配層男性という「仲間」たちをよろこばすためにおとしめていい。そうかんがえているのかもしれません。

 道長の場合は、どうだったのでしょう?

 寛弘五年(一〇〇八)九月、道長のまな娘・彰子は皇子をうみます。あつひら親王です。ついに道長は、「未来の天皇たるべき孫」を得たことになります。

 貴顕の家に子がうまれると、五十日目を祝う。これが当時のならわしでした。敦成親王の生後五十日目にも、もちろん宴席がもうけられた。その折の光景が、『紫式部日記』にしるされています。

あつまってきた上級貴族たちはこぞって泥酔。正気をたもっているのは、右大将・実資ぐらいのものでした。権中納言・隆家は、そばにいた女房を口説きだす。内大臣・公季は、息子の姿をみて「りっぱになった」と号泣する。道長も、紫式部に歌を詠むことを強要します(ここの道長は、完全にパワハラモードです)。紫式部がなんとか一首ひねり出すと、即座に返歌。そして、彰子にこんなふうによびかけます。

「中宮さま! わたしの返歌、お聴きになりましたか? 傑作ですよ!」

これはもう、「たちのわるい酔っぱらい」そのものです。彰子への呼びかけはさらにつづきます。

「中宮さまの父として、わたしは、上等! わたしの娘として、中宮さまは、上等な方! おかあさまも、運がいい、とおもって笑ってらっしゃるみたいだね! いい男と結婚したって、満足してるみたいだね!」

紫式部はこのときの道長を、いちおうフォローしています。

「ひどい酔っぱらいぶりとおみうけする。でも、害はないので、さわがしいけどおめでたい、というふうにだけうけとめておく」

 ひどい酔っぱらい。さわがしい。毒のある言いまわしの連続です。フォローをよそおった非難。わたしには、紫式部の「道長擁護」をそのようにしかうけとれません。

 みぎの道長のせりふを聞き、道長の妻・倫子は席をたちます。倫子はいうまでもなく、彰子の生みの母でもある。道長さまの醜態に、奥さまはいたたまれなくなったのだ――倫子の退席について、紫式部が口にしたコメントは辛辣です。

「送ってくれないといって、お母さまがうらむといけない」

 道長はそんなことをうそぶいて、倫子のあとを追おうとします。そしてそのまま、彰子の御座所に突進。酩酊のあまり、方向感覚もあやしくなっていたようです。

 このころの貴族社会では、実の父親にたいしても、成人した娘は顔をみせません。女性の顔は、現代でいうと全裸とおなじぐらい「厳重に隠すべきもの」だった。皇后の浴室に、皇后の父親が泥酔して乱入――道長がここでやらかしたことは、それに匹敵します。

 道長も、さすがにまずいとおもったようです。あわてて言いわけを口にした。

「中宮さまは、無礼者! っておもってらっしゃるようだよ。でもね、親のおかげで、子どもも出世できたんだ……」

 そんなぐあいに道長がぼやくのを、女房たちは笑ってみていた。紫式部はそう『日記』に記しています。道長の酔態は、ちっともおもしろくないし、ほほえましいともいえない。けれどもつかえている身としては、とりあえず笑っておくしかなかった――おそらく実情はそのあたりでしょう。

〇道隆を好意的に描いた清少納言/道長につめたい紫式部

森喜朗氏も真っ青の「女性の敵」――『紫式部日記』に描かれた道長はそのように映ります。これと対照的なのが、清少納言の『枕草子』に登場する道隆です。道隆は、道長の長兄。四十三歳で早世するまで執政者の地位にありました。清少納言がつかえた皇后・定子は道隆の娘です。

道隆は、冗談が好きな人物でした。彼がどんなギャグを飛ばしていたか。その様子は、『枕草子』に書きとめられています。

「中宮さま(=定子)は、どうおもっていらっしゃるかな? こんなにたくさんすばらしい女房ばかりあつめておられるなんて! うらやましいことだ。ひとりも、見た目が残念なひとがいないじゃないか。みんな、よい家のお嬢さんなのだろう? すばらしいなあ。このひとたちを、中宮さま、よくよく大事になさってくださいな。

 それにしてもみなさん、ご主人さまの心根をわかっておられるのかな? 中宮さまは、ほんとにがめつくてけち・・なお方だよ。わたしなんて、中宮さまがご誕生になって以来、ずっとおつかえしているんだ。なのに、おさがりの服ひとつだっていただいたことがない。これはもう、かげぐちではすまないね。正式に抗議しないとね」

 定子につかえる女房たちを、ことばに出してねぎらう。そのうえで、「このひとたちに感謝しなくては」と娘に訓戒する。これがいえるだけでもじゅうぶん「よくできた雇用主」です。ただ、こういうことをあからさまに口にすると説教くさくなる。それを察して道隆は、罪のない自虐を織りまぜた。知性とやさしさに満ちた人となりがうかがえます。

 道隆がじっさい、女性の目からみて道長より魅力的だったか。この点には議論の余地があるかもしれません。たしかにいえるのは、『枕草子』が、好感のもてる人物として道隆を描いたこと。そして、『紫式部日記』のなかの道長は、道隆のようではないことです。

〇「野望」のために「私情」を消した紫式部

 道長に対し、紫式部は好意ばかりをいだいていたのではない。『紫式部日記』の筆致は、それを感じさせます。では、紫式部は、生活のために「尊敬できないボス」にたよったのか。彼女が道長のもとにとどまった動機は、ほかにはないのでしょうか。

 紫式部は、幼少期から漢文に秀でていた。彼女の父は、わが娘がこれほどこの道の才にめぐまれながら、男でないことを嘆いた――『紫式部日記』に記された有名な挿話です。

 この時代、漢文をたくみに書ける男性は、なにかと重用されました。公式文書はすべて、漢文で書かれるのが原則だったからです。けれども、業務で漢文を書く機会があるのは、男性だけでした。漢文の能力をみとめられて出世する。女性に対し、そうした立身の道は閉ざされていました。

 その閉ざされた可能性に、紫式部は挑んだのです。女性でありながら、漢文の学力を駆使して地位や名声を得る。この難題に取りくみ、紫式部が得た回答。それが「男性も称賛する物語をつくる」でした。

 中国では伝統的に、「荒唐無稽なつくり話」はかろんじられます。教養ある君子は、詩や歴史をもっぱらひもとくべきである。書き手としても、このふたつのジャンルを手がけてこそ「一流」である。そういう価値観が、近代以前の彼の国を支配していました。

 大陸の「フィクション蔑視」の風潮は、平安貴族にも影響します。さらに、かな散文であらわされた文書は女性向け、というのが当時の常識です。かな散文でつづられた長編物語。男性貴族にとってそれは、二重の意味で取りつきにくいシロモノでした。

 そんな「男が避けるはずのコンテンツ」を男たちに読ませる。「漢文力」をそなえた作者であればそれも夢ではないはずだ。紫式部はそう考えた。そして、もろもろの術策をめぐらせて野心作を書きあげた。このようにしてうまれたのが、『源氏物語』でした。

 男性貴族、しかもその頂点にいる人びとに自作の物語を読ませたい。紫式部には、そうした「野望」がありました。とすれば、彰子への出仕を、ねがってもない好機と感じたはずです。その立場にあるかぎり、帝や公卿たちとじかに交流できるわけですから。

 道長に好感をもてるかどうか――大いなる「野望」のために、そんな「私情」はかえりみない。道長の傘下に入るに際し、紫式部はおそらく、そのように覚悟をきめたのです。

〇『源氏』は「山崎豊子作品のようなセミノンフィクション」

 では、「男性が読む物語」をつくるべく、紫式部は具体的になにをしたのでしょうか。

『源氏物語』の話柄は、それ以前の長編物語とはまるで異なります。月から天人が降りてくる、琴を弾くと屋根がわ・・がまとめて割れる――このような「現実世界でおこらないこと」は、『源氏物語』では描かれません(「夢告」と「物の怪」は、『源氏』にも登場します。このふたつは当時、ある程度の現実味があるとおもわれていました)。

 これにくわえ、登場人物の多くが、実在の有名人とイメージをかぶらせて語られます。たとえば桐壺帝は、宇多天皇や醍醐天皇がモデルだとほのめかされる。主人公である光源氏も、源高明と経歴上の共通点が多い。紀貫之、在原行平といった「文学セレブ」の名も引用されます。

 山崎豊子の作品は、「実在する組織や人物」を踏まえていることで有名です。「浪速大学」は大阪大学。「国民航空」はJAL。「壱岐正」は瀬島龍三氏……山崎作品をひもとくと、「名の知れたモデル」が頭に浮かんできます。『源氏』を手にとった平安貴族にも、おそらくおなじ現象が起きていたはずです。

 長編物語といえば、『竹取物語』のようなファンタジーしか存在しない。そうおもわれていたところに、『源氏』という超リアルな作品が出現した。読者の衝撃は、想像にかたくありません。『ハリーポッター』のような「空想的なお話し」を読むつもりで本をひろげた。そうしたら、中身は『白い巨塔』だった――『源氏物語』は発表当初、そのレベルで「常識をうらぎる作品」でした。

 長編物語としては空前の「セミノンフィクション」。そういう作品を書けば、「虚構蔑視」に染まった男性貴族も関心をもつ――紫式部は、そんなもくろみをいだいて、『源氏物語』を書きはじめたのでした。この「ねらい」はみごと的中します。

 敦成親王五十日の祝いが、『紫式部日記』に記録されていることはすでにふれました。そのくだりには、この時代の最強文化人・藤原公任も登場します。

道長が大井川で船あそびをくわだてた。和歌、漢詩、管弦、それぞれの達人が乗る船を仕たてよう。そうおもいついたところでふと道長はこまった。公任はこの三つすべてに長けていて、どの船に乗せていいかわからない……『大鏡』に記されたエピソードです。公任の教養は、それほど卓絶していました。

「このあたりに、若紫さんはいらっしゃいますか?」

『紫式部日記』によると、公任は宴席で紫式部にそう問いかけたそうです。「若紫」は、『源氏物語』のヒロインである紫上の若き日の呼称。公任は、この物語の内容をよく知っていたのです。「男性文化人のなかの帝王」が興味をいだく。『源氏物語』が、そんな「とくべつの物語」になっていたことがわかります。

〇漢文につよいから「セミノンフィクション」が書けた

『源氏』のような、「史実」をとりいれた物語。これは、書く気になればだれにでも書けたわけではありません。

『栄花物語』と『大鏡』は、かな文字で記された歴史物語です。両者の成立は、『源氏』が貴族社会に流布した時期よりおくれます。「史実」をつたえる書はすべて漢文。『源氏』が起筆された段階ではこれが常識でした。紫式部が漢文を読めなかったとしたら――「セミノンフィクション」に挑戦することじたい、不可能だったでしょう。

『紫式部日記』には、一条天皇が『源氏物語』をほめたときの話も載っています。

 天皇は、女房が朗読するこの物語を聴いた。そして、「これを書いたひとは、日本の歴史の本を読んでいるにちがいない。漢文がすごくできるんだね」といったそうです。『源氏』の背景に「史実」があることを天皇は見ぬいた。そして、つぎのように連想した。こんな作品をうみだした作者は、当然、歴史書にまなんでいる。それができたということは、漢文を読むちからがすごいはずだ……『源氏』のようなものを書くには、「漢文力」が必須である。これは、見識ある読者であればすぐわかる事実でした。

 いまだかつて存在しない「史実」にのっとった長編物語。そういう作をあらわすことで、「虚構蔑視」の男性貴族を「わたしの愛読者」にする。ひいては、そうした男性読者たちに、じぶんの漢才をみとめさせる。これが、紫式部の構想した「女性でありながら漢文で名をあげる方法」でした。この計略を彼女は実行にうつし、結果は成功。はやい時期から『源氏物語』は、物語としては別格の名声を確立します。

 紫式部は、「はからずも有名になった女性」ではありません。栄誉を得るために手をつくし、ねらいどおりそこに到達したひとでした。

〇紫式部は素直じゃない

 紫式部の性質は、内気でひかえめである。一九七〇年代ぐらいまでは、一般的にそのようにいわれていました。この見解は、みぎにしめした「名声をねらい撃ちした紫式部」という像と矛盾します。

 旧来の解釈は、紫式部のことばを字義どおりにうけとめすぎている。それがわたしの、率直な印象です。

 たとえば、さきに引用した一条天皇の挿話。『紫式部日記』はこれを、「悪口をいわれてこまったはなし」の一部として語ります。

……みかどがわたしについて、「このひとは漢文ができるはずだ」とおっしゃった。そうしたら左衛門の内侍が、わたしがそのことを鼻にかけていると邪推した。それでみかどの側近に、「あいつは漢文自慢をしている」といいふらしたらしい。「日本紀(=日本の歴史書)の御局」というあだ名までつけたそうだ。ばかばかしい。実家の使用人のまえですら、漢文なんてできないふりをしているのに。まして宮中で、「漢文ができます」なんて顔をするものですか……

 いわれたままに紫式部のことばをうけとるなら、これは「愚痴」でしょう。しかしわたしの目には、「屈折した自慢」と映ります。

『源氏物語』は、冒頭の桐壺巻から、白居易の『長恨歌』を嵐のように引用。「史実」との関連に目をむけずとも、「漢文通」がこれを書いたのは一目瞭然です。物語をつづる紫式部は、「わたしは漢文にくわしいアピール」をためらいません。

『紫式部日記』のなかでは、じぶんが「漢文自慢」であることを否認。いっぽう物語を書くに際しては、漢籍の素養を誇示。ここにはあきらかなギャップがあります。

 この食いちがいについては、これまでつぎのように説明されてきました――王朝物語というのは、ほんらい匿名でつくるものである。いっぽう日記は、著者の名があかされた状態で読者の手にわたる。紫式部は、正体不明の書き手として漢文力をぞんぶんに発揮した。これに対し、身がらがばれる日記のなかでは、遠慮の姿勢をみせた……

 たしかに、平安時代の物語は、「作者不明」のまま流通するのがきまりでした。とはいえ――この日記の著者は『源氏』の作者でもある。そのことを『紫式部日記』は、随所でうちあけます(すでにふれた公任や、一条天皇にかかわる叙述もその例)。『源氏物語』はじぶんが書いた。紫式部は日記のなかで、そのことをむしろ誇るかのようです。

 わたしはここで、十年ほどまえにおしえていたある学生さんをおもいうかべます。

 あるとき、みなれない番号からわたしの携帯に電話がかかってきました。とってみると、その学生さんが所属する学科の主任教授からです。

「あなたのレポート採点がいいかげんなのではないかと、学科会議で問題になった。『スケガワせんせいはまったくレポートを読んでいない。げんにじぶんは完全コピペのレポートを出したのに、評価はSだった』――うちの学科の学生が、そういってさわぎまわっている。事実であれば放置できないので、その学生のレポートを確認してほしい」

 指示を終えると、主任教授は電話を切りました。わたしはすぐに、その学生さんのレポートをひっぱりだしてみた。授業をよく聴いていなければ書けない、ふつうに優秀なレポートです。コピペの形跡はどこにもありません。その旨を主任教授につたえ、わたしはあやうく懲罰をまぬがれました。

 学生さんは、わたしからSをもらってうれしかったのだとおもいます。だったらそのまま自慢すればいいのに、奇妙な遠慮をはたらかせた。結果、わたしは身におぼえのない嫌疑をかけられた。

『紫式部日記』に書かれた「日本紀のお局」のはなし。これも、みぎの学生さんの案件とおそらく同根です。

たとえば清少納言なら、「みかどにほめられた!」とすなおによろこんだにちがいない。紫式部にはそれができなかった。「こんなことで舞いあがるなんて!」。そういって揶揄されるのが、おそらくこわかった。紫式部のプライドは、それだけ脆弱だったのです。

周囲にしてみれば、自慢はストレートにされるほうが楽なのですが……。(「下」につづく)

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう)
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。