普遍理論としての疎外論田上孝一

 現在疎外論の入門新書を執筆しているのだが、書き進める内に疎外論という理論の普遍性というか、人間や社会の本質を説明するための理論として強力さのようなものを痛感するようになり、長年研究している身でありながら、改めて驚きを隠せないでいる。

 そもそも私が疎外論を研究し、今般その入門新書を書くようになったのも、私の専門研究分野がマルクスの哲学で、マルクスの哲学とは疎外論であることを長年に渡って主張し続けていたからである。

 最近ではかなり下火になり、特にマルクスの専門研究者の間では殆ど見かけなくなったが、かつてはマルクスがその若き日の疎外論を後の著作、特に『ドイツ・イデオロギー』で批判的に乗り越えたという、いわゆる「疎外論超克説」ともいうべきマルクス解釈が大きく広がっていた。この解釈については今から四半世紀前に出版した博士論文『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)で徹底的に反駁した。マルクスが疎外論者であったのは間違いない。

 マルクスは『経済学・哲学草稿』でいわゆる「四つの疎外」について論じているのだが、その第四規定となる「人間からの人間の疎外」の「人間」は、人間がそうあるべき人間という規範的概念としての人間であると共に、他者としての人間でもある。他者から疎遠になることは人間に相応しい共同性が損なわれることであり、類的な共同存在としての人間性の疎外でもあるからである。

 なぜ労働の疎外において他者との共同性が疎外されるかといえば、疎外された労働生産物が労働者ではない人間に私的に所有されるからである。いうまでもなく疎外された生産物を所有するのは資本とその人格化である資本家である。問題はそうした搾取構造それ自体が、労働者が労働過程から疎外されることによって生じるということである。

 当然労働者は搾取されることなど望んでいない。それなのに労働者は実際に搾取される。つまり労働者は自らの意図に反して、自らがそれとは知らずに自らを苦しめる構造を作り出してしまうということである。

 これがマルクス的な疎外論の真髄となる。人間が自らの意図に反して自らの作り出したものに支配され苦しめられるというような否定的状態が、マルクス的な意味での疎外となる。

 そしてこうしたマルクス的な疎外概念は、今日一般的な意味で使われる疎外概念に通じている。

 ただし今日では通常の意味で疎外というと、他人及び広くは世界それ自体から孤立しているような強烈な孤独感があり、それにより非常な生き難さを感じるというように、主として心理状態を意味するような用語として用いられているように思われる。

 これに対してマルクスの言う疎外は心理学的なカテゴリーではなく、実際の状態を指示する存在論的カテゴリーである。また同時に、現実が望ましくない状態にあることを批判する価値的で倫理的なカテゴリーでもある。しかしどちらも否定的でよくない状態を意味する限りで、通俗的用法とマルクスの原義は基本方向を一にする。

 しかし疎外が基本的に悪い否定すべき状態を意味するのは、優れてマルクス的な意味であり、マルクスの疎外論がその後に続く疎外概念の用法に決定的な影響を与えているというのが、今回の疎外論入門の執筆の際に改めて気付かされたことである。

 というのも、マルクス以前の用法では、疎外は必ずしも否定的な意味ではなく、むしろ肯定的積極的な意味で使われることが多かったからだ。

 その典型が、マルクス疎外論の直接的起源であるヘーゲルである。

 疎外はEntfremdungの訳であるが、ヘーゲルの場合は主に外化Entaeusserungが用いられる。外化は内なる本質を外に出して現実化することだが、本質が外に出ている限りは確かに疎遠になるので、外化には疎外の契機が含まれる。しかしそうした疎遠な状態は外化された本質が再び内化されて取り込まれることによって、高次回復されることが予定されている。この意味でヘーゲルにあっては、疎外はそのプロセス全体としては肯定的になる。そして実は、マルクス以前の疎外論では、どちらかといえば疎外は肯定的な意味で捉えられていた。それが典型的に示されていたのが、社会契約論である。

 社会契約論には古典的な議論と現代的な議論の展開がある。現代を代表する社会契約論はジョン・ロールズによるもので、現実には存在しない仮想状態で、合理的な諸個人が相互に十分納得して結ぶ契約が、望ましい社会のあり方を指し示すというような議論である。

 これに対して古典的な議論はホッブズやルソーに代表される。

 古典的な議論では社会以前の自然状態にある人々や、秩序ある社会を形成することを求める人々が実際に太古に結んだり、これから改めて行うべき契約というような意味での契約論が語られる。

 こうした古典的な社会契約論の肝となるのが、契約後に契約以前よりも善い状態を創出するために、いったん人々が自らの権利を他者に譲渡するという理論である。

 譲渡された個々人の権利はホッブズの場合はリヴァイアサンたる絶対君主に体現され、ルソーの場合は共同体の真実の意志である「一般意志」となる。いずれも譲渡という概念が鍵になる。そしてこの譲渡こそが、疎外概念の代表的な用法の一つなのである。

 譲渡される権利は各人にとって本質的に重要な要素であり、譲渡されることによっていったん各人の本質は失われる。しかしこの喪失が以前にはない富を生み出す。敢えて失うことによって、より大きな実を得るのである。このように社会契約論の基本構造もまた、マルクス以前での疎外論の展開の一つであると捉え直せる。

 こうして見ると、疎外論というのは実に普遍性を持った議論であることが痛感される。

 マルクス自身の議論に即せば、人間が自らの意図に反して自らの作り出したものによって支配されるというのは、人類史そのものを見る際の基本視座となりうる。

 また「自らの作り出したもの」は、物体的な物に限らず、今日風に言えば制度やシステムも含まれる。マルクスが真っ先にそうした疎外された制度として挙げるのが貨幣であり、貨幣によって人間は疎外され物件化される。物件化については以前のコラムで解説した。

 マルクス以前の譲渡論にしても、より高い状態に至るために敢えていったん自身を喪失するという議論の普遍性も明らかであろう。何よりもこうした譲渡論の古代的原型はキリスト教の三位一体だからだ。

 神が敢えて人間であるイエスに受肉していったん神聖な霊性を喪失するというキリスト教の物語は、ヘーゲルにつながる疎外論の古代的原型の一つであり、譲渡論の代表例でもある。

 こうしてマルクス及びマルクス以前の疎外論は、それこそが代表的な哲学理論の一つであると主張できるほどに普遍性のある理論であり、ある種の「万能理論」のようなものでもあるのだろうかというのが、疎外論の入門新書を書き進める中で痛感したことである。

 これまで疎外を基軸概念としてマルクスを解釈し、その理論的可能性を訴え続けてきたが、この基本方向は全く誤りがなく、実に実り深いものだったというのを再確認できたのが、今回の疎外論入門の執筆であった。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)